アレクセイの花園 http://8010.teacup.com/aleksey/bbs に「矢吹駆のキャラクター設定はいかに為されたか」を投稿。

以下は、その原文。
※『熾天使の夏』、『エディプスの市』、『ヴァンパイヤー戦争1』の内容に触れています。未読の方は、ご注意願います。
『バイバイ、エンジェル』から始まる矢吹駆シリーズのキャラクター造形がいかに生まれたかについては、『熾天使の夏』(講談社文庫)、短編集『エディプスの市』第三部に収められた「超越へ」で知ることができます。
まず、『熾天使の夏』は主人公となる話者が、左翼ラディカリズムによってテロリズムに走り、現在植民地都市に逃れてきた人間という設定であるために、話者の名前は周到に消されていますが、一箇所だけ<カケル>と呼ばれる瞬間があります。この作品は、矢吹駆シリーズの第0作として出版されたため、読者はこの主人公が若き日の矢吹駆であることはわかっているわけですが。
熾天使の夏』には「完璧な自殺それが問題だ。」というセリフが散見しますが、このあたりは大江健三郎の『われらの時代』(新潮文庫)を連想させます。また、「すべてよし」は、ドストエフスキーの『死霊』のキリーロフのセリフから来ていると考えられます。生硬で観念的な文体は、埴谷雄高等の実存主義系の文学の影響が顕著です。
『エディプスの市』第三部「超越へ」は、普通小説のかたちで、左翼テロリズムに帰結する思想の難問(アポリア)を描こうとした未完の作品ですが、この作品の主人公は<明日香>となっています。こちらの文体は、おそらくマルセル・プルーストの模倣だと思われます。
矢吹駆の構想段階では、<明日香(アスカ)>、<矢吹志駆摩(シグマ)>だったことがあるということです。
笠井潔は、当初、普通小説で左翼テロリズムの問題を描こうとし、挫折しています。彼は、探偵小説という様式化されたジャンルの形式でやっと、この問題を描くことに成功したのです。(本当は純文学でデビューしたかった人間だということです。)
後年、彼は、探偵小説という形式には、戦争中の大量死と戦後の大量生という生きる意味を奪われた時代に抗するという意味があるのだと考えるようになり、自分が探偵小説の分野に移動したのは、意味があったとしています。しかし、これは後知恵であり、実のところ、彼の探偵小説は、普通小説の代用品として要請されただけのことです。
ちなみに、現在刊行されている『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)は、主題に沿った文芸作品を批評するというスタイルで書かれていますが、当初「観念論」というタイトルで構想されていた段階では、文芸評論ではなく、純然たる理論書を書く予定だったようです。
『ヴァンパイヤー戦争』の主人公、九鬼鴻三郎は、笠井潔が<黒木龍思>という名前で新左翼の活動をしていた頃の仲間の活動家ネームだそうです。『ヴァンパイヤー戦争』には、ムラキという元左翼テロリストが出てきます。ムラキの経歴は、矢吹駆とそっくりであり、ムラキの持っているレコードの枚数は、矢吹駆のそれと一致します。ムラキは、かつて自分が属した左翼ラディカリズムに対して、「反・観念」の立場をとっています。この「反・観念」の思想は、『テロルの現象学』で示された「集合観念」と同一であり、観念の内にあって観念自体を浄化する観念とされています。(この浄化とは、岡本太郎の言っていた芸術の「爆発」と同じことを指しています。どちらもバタイユの呪われた(過剰な)部分の蕩尽ということと重ね合わされた意味をもっています。)ムラキの行動的分身が、九鬼鴻三郎であり、九鬼鴻三郎がマッチョなのは「反・観念」だからです。(しかし、マッチョは観念の外なので、九鬼鴻三郎は、『テロルの現象学』の思想を十全に表現しているわけではありません。笠井潔は、自著『テロルの現象学』における観念の内側から観念を浄化する点を強調し、形而上学に対し、内部から、形式化を徹底し、これを脱構築=ディコンストラクトするジャック・デリダ柄谷行人に相当する仕事を、マルクス主義に対してやっているのだと主張していましたが、その主張に反する安直な表現に走っていることになります。)
『ヴァンパイヤー戦争1』で、ムラキは吸血鬼に対する現象学的態度を示します。現象学という言葉を使用していませんが。吸血鬼は実在するのかどうかと迫る九鬼に対し、ムラキは実在するかどうかという問題をかっこでくくり、それがどうであろうと、吸血鬼がいるとして話を進めないと、現前する生命の危機を回避できないとします。ムラキは、思考法まで、矢吹駆なのです。
<明日香(アスカ)>と<ムラキ>が、矢吹駆であることは、『瀕死の王』より前から設定されていたことなのです。