コリン・ウィルソンの自伝『発端への旅』(中公文庫版)刊行なる

コリン・ウィルソン著・飛田茂雄訳『発端への旅〜コリン・ウイルソン自伝』が、中公文庫から刊行になりました。この本は、コリン・ウィルソンが、自らの思想形成を語った本で、彼の著作の中でも比較的重要な本だと思います。
彼の立場は、新実存主義という立場ですが、(異様なほどの)生命主義といったほうが判りやすいかもしれません。彼は『アウトサイダー』という評論とセットで、『暗黒のまつり』という小説を書いてデビューしたひとですが、『暗黒のまつり』を読むと、彼が危険なほどの異様な生命感に魅せられた人であることがわかります。彼のいう実存とは、善悪に先立つ生きて在る自分のことです。
コリン・ウィルソンは、この根源的な生命への信頼から出発して、(1)哲学・思想のフィールドで、ロマン主義実存主義に続くロマンの高みを目指し、続いて(2)マスローの心理学のフィールドで、至高体験の絶頂を目指し、さらには(3)オカルトの領域までも踏み込み、人間に秘められたX機能の扉すらもこじ開けようとします。
コリン・ウィルソンの本は、どれも膨大な知識とデータに裏付けられていますが、彼は義務教育以外にアカデミックな教育を受けていません。(その点、笠井潔に似ています。)コリン・ウィルソンは、労働者階級の出身であり、皿洗いなどをしながら、『アウトサイダー』を書いたのです。
ポスト構造主義後、あるいは脱構築後の時代にあって、「今頃、なぜ実存?」といぶかる向きもあるでしょうが、善悪に先立つ生きて在る自分の問題は、未だ古びていないと思います。自分はキリスト教徒でなく、キリスト者と規定したキルケゴールの言い回しや、自分はマルクス主義者でなく、マルクス者といった吉本隆明の言い回しを適用すれば、実存主義者ではなく、実存者というべきでしょう。サルトルの展開した社会哲学や、心理学における無意識の否定などは破綻していますが、実存者もしくは単独者の問題は、まったく古びていないのです。
たとえば、東浩紀のいう「郵便的」という概念がありますが、これは自分の出したメッセージが、必ずしも自分の意図どおりに相手に伝わるわけではないということであり、伝わるのが当たり前というロゴス中心主義的な無誤謬主義への不信を示しています。これは、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』(地下室の手記ともいう)における水晶宮への毒づきに似ています。『地下生活者の手記』の主人公は、ひきこもり(ヒッキー)であり、アウトサイダーです。水晶宮とは、当時の合理主義者が考えたロゴスによって統治された理想郷のことです。「郵便的」という言葉は、水晶宮での当たり前の前提に対し、根拠がないことを宣言するものです。
問題は、ポスト構造主義のプロブレマティックを、再び生きたものにすることです。なるほど、散種を目指したジャック・デリダのテクストは、すばらしい。この散種を、あらゆる領域に敷衍するならば、言語や無意識等に仕掛けられた権力システムを解体できるだろう。ただ、デリダの試みは、あまりにもテクストのディコンストラクション脱構築)に留まっており、テクストを解体する試みにおいて、テクスト内に留まるというパラドックスに陥っており、彼の試みを身体感覚や、政治的実践に応用することなしに、自家中毒に陥る危険性があるように思います。(私がデリダより、ドゥルーズ=ガタリを重視するのは、彼らの方がテクスト外に連結する試みを積極的に行ったからです。)
そうした思想を生きたものにする方向性を突き詰めてゆく過程において、ポスト構造主義とポスト実存主義が手を握り合うこともありえると考えます。まぁ、そんな綜合を考えている人間は、見渡す限り居ないようですが。