幸福は、常に闘い取られるものである。

ファウストの最期の台詞(セリフ)は、"とどまれ、時よ、君はいかにも美しいと"である。
ゲーテは、年老いファウストを若返らせ、恋愛をさせ、芸術の追求をさせ、最後に世界のための仕事に奮闘させた。
最期にファウストは、自分のやれることを十全にやったという満足感のなかで、美しい時に向かって、"とどまれ、時よ、君はいかにも美しいと"と言う。
この言葉を言うとき、ファウストは、悪魔メフィストフェレスに魂のすべてをそっくりそのまま渡してもいいという契約になっていた。
悪魔メフィストフェレスが、これでファウストが自分のものになったと考えたとき、ゲーテは天界からファウストに救済の手を差しのべる。
自己実現に至るまで闘ったファウストは、ゲーテの理想の人物であり、なんとしても救済せねばならない魂だった。
幸福は、常に闘い取られるものである。
物質的な面で幸福の条件が揃っていても、精神が覚醒していないと、幸福と気づかないままに指の間からこぼれ落ちる。
かつてアレハンドロ・ホドロフスキーは、『夜想』に掲載されたインタビューで、死に至るまで戦い続ける闘鶏について語り、闘争する鶏は、斜め上を見ながら絶命し、死後も戦いは続くといった。
アレハンドロ・ホドロフスキーの考えていたのは、自己超越への欲望についてであった。それは死という限界をも超えるというのである。
「自分は幸福な、満ち足りた死を迎えることができるのだろうか」という問いは、「自分はいかにして幸福な、満ち足りた生を送ることができるか」に変換される。
アルベール・カミュの『幸福な死』は、主人公パトリス・メルソー(この名前は海と太陽の合成語である)が、「世界を望む家」で幸福な死を迎えるために、充足した生を送るという話である。
小林秀雄カミュの『ペスト』評で、「死」という、やがて来る難破が確実ならば、宗教的な救済や哲学的解決は幻想に過ぎないとし、カミュのいう不条理とはそういう避けられない人間の条件を指すものだという意味の発言をしている。
カミュは『シーシュポスの神話』の中で、死を直視し、生と死の緊張関係を維持することが、悦びに変わるとする。
カミュもまた、闘い取られる幸福のことを考えていたのではなかろうか。