内的体験
ここ数日、バタイユの『内的体験』を読み耽っていたのだが、バタイユは相当ヘーゲルに入れ込んでいるという印象を受けた。

- 作者: ジョルジュバタイユ,Georges Bataille,出口裕弘
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1998/06/01
- メディア: 単行本
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「彼(キルケゴール)はヘーゲルを完全に理解していない。」(同ページ)
「ニーチェはヘーゲルについて通俗解説書以上のことはほとんど知ることがなかった。」(同ページ)
私が想うに、ヘーゲルは『精神現象学』で、ほとんど実存主義的ともいえる徹底した自由の追求を行い、自由を極限まで弁証法を使い全面展開している。その意味で、「知性の諸可能性をヘーゲルほど深く掘り下げた者はない。」という評価は、間違っているとはいえない。
問題はヘーゲルの出発点ではなく、その論理的必然的帰結である。それがもたらすものは、絶対精神による極限の専制の肯定ではなかったか。
また、インドのヨーガや仏教に関して、バタイユはなんども自分の哲学(もっとも反哲学という方が合致しているかも知れないが)ほど踏み込んでいないとして、物足りなさを表明する。「インド人たちの著作は、鈍重だとはいわないとしても、斑が多すぎる。」(54ページ)、「最高段階で、彼ら(インド人)には、私にとっては大切なものが、つまり表現能力がなくなってしまう」(55ページ)など。
つまり、バタイユは終始、反キリスト教的な作家・思想家なのである。キリスト教の厳格な教条があって、自身は後ろ向きで瀆神の儀式を執り行っている。激烈な否定を行い、主体を解体し、引き裂かれた魂を剥き出しにする。それは、彼にとって決定的かつ絶対的な至高体験なのである。だから、彼はキリスト教教条を逆説的に必要とする。しかしながら、インド人には、そのような超越者を中心とする神学体系がない。それが、バタイユには不満なのである。彼はキリスト教教条に対し、謀反の心を炸裂させることに悦びをかんずる。それなくして、彼は彼でない。
しかし、このような彼のスタンツは、極めてヨーロッパ的なローカルな考えではないだろうか。