モニターの外部へ

以下は、アレクセイの花園 http://8010.teacup.com/aleksey/bbs への投稿原稿(抜粋)です。
湾岸戦争はなかった』は、ジャン・ボードリヤールの著作です。
ジャン=フランソワ・リオタールは、「社会主義か、野蛮か」グループ、つまりマルクス主義内改革派の出身です。
これに対し、ボードリヤールは、『生産の鏡』でマルクスを葬ろうとしています。
笠井潔は、「革命のディスクールの変容」の中で、ボードリヤールのこの葬り方が不徹底であるという言い方をしています。)
ふたりのボシションの違いは、マルクスとの関係性です。このことは現実と向き合う態度に関係しますから、思想家を見定める上で参考になるかと思われます。
ボードリヤール理論社会学の核心は、マルクスではなく、ソシュールアナグラム論とマルセル・モースおよびジョルジュ・バタイユのポトラッチを中心とする贈与に関する論考にあります。マルクスはものの生産を問題にしたが、自分は記号の消費を問題にするというわけです。
こうして、ボードリヤールは、オリジナルと無関係のコピーのコピーがとびかう「シミュラークル」の世界に行き着きます。『湾岸戦争はなかった』という反感を買う挑発的な言い方は、欧米社会では湾岸戦争は、「シミュラークル」の世界で記号として消費されたということであり、現代社会では「シミュラークル」の外部にある現実の死が見えなくなっているということです。
ボードリヤールの思考は、ここで停止しており、モニターごしではない他人の死の真実を直視し、そこから翻って、現実の死を見えなくさせているシステムとは何か、を問うまでには到っていないのです。今回、紹介した『反定義』の場合、根底に欧米と、紛争地域となっている非欧米地域との間に「非対称」があり、ジャーナリズムも含めて、人の死を同等の価値基準で扱っていないのだとはっきり語られており、その点、評価されるべきだと考えました。
ボードリヤールは『象徴交換と死』で、リオタールの『エコノミー・リビディナル』とドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』に見られる<リビドー経済>の考え方を批判しています。リオタールの位置は、ドゥルーズ=ガタリに近いところにいるのです。
『反定義』の対話がなされたとき、既にドゥルーズガタリも故人となっていたわけですが、辺見庸は「ドゥルーズガタリだったらもっとちがうことをいったんじゃないかという気もする」(朝日文庫版、194頁)といっています。
ボードリヤールと比較すると、フーコードゥルーズガタリ……は、はるかに政治参加(アンガージュマン)をしてきたように思います。(リオタールについては、詳しくないので、言及は避けます。)このあたりの知識人は、サルトルが行ってきた知識人の役割、場合によっては体制に異議申し立てをすることを引き受けてきたように思います。ただ、フーコードゥルーズガタリの亡き後は、そういうことをしようとする知識人は、ほとんどいなくなってしまいました。
では、ドゥルーズ=ガタリに見られるような思想が、9・11以降という基準に照らして十分だったのでしょうか。ドゥルーズ=ガタリの思想(注)は、資本主義に見られる脱コード化=解体を、さらに極端に推し進めるというものでした。これによって、多様な価値観が許容され、理想に近づくことが出来ると考えられ、この方向性から、ファシズムが否定され、さらにスターリン主義のような袋小路が否定されました。
今日、この資本主義は、グローバリズムというかたちで世界を単一の価値に推し進めようとし、これに対するイスラム原理主義の側からのテロリズムに対しては、強力な<帝国>を作り上げ、新植民地主義というさらに大きなテロリズムによる圧力で押さえ込もうとしています。こういった資本主義の動きに対して、批判的論陣を張る必要があります。新帝国主義新植民地主義は、資本主義の中の超コード化への動きと捉えることができます。テロリズムを斬ると同時に、新帝国主義新植民地主義を志向する動きに対しても、新たな否定の論理を構築する必要があるのです。
(注)フェリックス・ガタリの論集(『分子革命』『闘走機械』…)を見ますと、資本主義の持つ帝国主義への警戒がみられ、日本国内で流通した「ドゥルーズ=ガタリの思想」とは違って、資本主義への批判色が強いことがわかります。
http://www.robert-fisk.com/iraqwarvictims_mar2003.htm