甦るウエルズ

[以下の原稿は、アレクセイの花園 http://8010.teacup.com/aleksey/bbs に投稿されたものです。]

最近、H・G・ウエルズに魅せられています。
H・G・ウエルズに『解放された世界』(サンリオSF文庫)という作品があり、これは1914年の著作なのですが、核エネルギーの解放に成功した人類が、これを軍事利用し、全面核戦争になる光景を描いています。パリ、ベルリン、ロンドン、モスクワ、東京、シカゴなど、世界の都市に原子爆弾が投下され、火の海になるのです。
H・G・ウエルズは、核戦争の予言を行うと同時に、そこからの救済策を提示します。それは各国が国家主権を放棄し、「世界頭脳」を形成するということです。
H・G・ウエルズは、創作活動以外の分野でも活躍し、第一次世界大戦後、レーニンスターリンルーズヴェルトらと会談を行い、国際連盟の創設に力を注いだといいます。
しかしながら、国際連盟が実現すると、H・G・ウエルズは深い失望を抱きます。H・G・ウエルズの見た国際連盟は、単なる国家の寄せ集めに過ぎず、国際協調よりも、各国のエゴを主張し合う場となっていたからです。
第二次世界大戦後、国際連盟の失敗を踏まえて作られた国際連合においても、この問題点は解消されていません。常任理事国に拒否権という制度があるため、環境問題や平和問題など、たとえ全地球規模で必要なことであっても、超大国にとって都合の悪いことは、なにひとつ実現されないからです。
H・G・ウエルズの苦悩は、21世紀を生きるわれわれにとっても切実な問題を孕んでいます。
また、H・G・ウエルズが、現代における百科全書派を目指したことも、注目に値します。H・G・ウエルズは文明史・生命史の観点から、人類のあり方を捉えなおそうとしました。断片的で、細切れではない包括的な知を目指したということです。
H・G・ウエルズは、現代の知識人にない魅力をもっているように思われます。
第一に現代の知識人、特にポストモダン以降の知識人は、政治参加(アンガージュマン)に消極的です。これは湾岸戦争イラク戦争の際に、目立った抗議運動がなかったことからも明白です。H・G・ウエルズのように、現実に働きかけることをしないのです。
また、倫理を語ることにも、臆病になっています。倫理がスターリン主義的な意味の押し付けに転化すると批判されるのを恐れているように見受けられます。
かつて吉本隆明が「anan」にコム・デ・ギャルソンの服を着て登場し、埴谷雄高がそれを見て、日本の消費社会はアジア各国の犠牲の上に成り立つぶったくり資本主義であると評し、吉本隆明がそれをスターリン主義的な倫理を振りかざした恫喝であると反批判し、世評的には吉本の優勢勝ちになったわけですが、それ以降、知識人が倫理や意味を口にする事に慎重になったような印象があります。
一方、ドゥルーズルイス・キャロル論『意味の論理学』にも注目しておく必要があります。ドゥルーズは、ここで深層と表層の弁証法ではなく、表層しかない世界として、「不思議の国のアリス」の世界を読み取ろうとします。これに影響を受けた蓮見重彦が『表層批評宣言』を書きます。ドゥルーズは、その後アルトーに注目し、世界の見方も変わってゆくわけですが、この時期の(ドゥルーズにとっては過渡期の)表層批評が日本のひとつの潮流を生み出します。
一方で、反スターリン主義的観点からの倫理や意味への不信、もう一方で表層批評という思想潮流があって、ドナルド・バーセルミなどのメタ・フィクションの日本版というべき高橋源一郎のポップ文学に一過性の注目が集まるようになります。
しかし、長期的観点から見ると、ポップ文学より『死霊』が残るのは間違いのないことであり、それゆえ、現代思想のこの傾向については再考の余地があると考えます。
第二に、現代の知識人は、極度に専門化した知を扱っており、その分野では相当優れているかも知れませんが、文明史・生命史といったマクロの視点から俯瞰的に見れる人は、非常に少なくなっています。
私はSFというと、ニューウェーブ以降ばかりに注目していましたが、それ以前のハードSFにも見るべきものがたくさんあることを感じました。ハードSFの中には、核時代における危機意識が表明されたものが多数あり、この危機感が作家の想像力を触発しているように思われます。
最悪の想像をすることは、未来における最悪を避けるために必要なことです。
H・G・ウエルズは、荒削りかも知れませんが、現代の知識人に欠けている要素を多く持っているように思えるのです。