日本的ファシズムの胎動

最近の中国の論調は、靖国神社A級戦犯を合祀しているから、首相の公式参拝には問題があるというものである。まったく、この論法は甘すぎる。これではB級戦犯やC級戦犯はよいと受け取られかねないではないか。
中国政府は、靖国神社への首相の公式参拝のみならず、靖国神社の存在を否定すべきである。靖国神社のような存在を、戦後も許容している日本社会は何事かと批判し、「自国の国民の現在と将来に渉る生存権の確保と、親愛なる日本国民のために、日本政府が国家神道の否定を憲法レベルで明文化することを要求する」と言うべきであると考える。靖国神社なんてものは、他の神社と違って宗教ではなく、国家政策の都合による人工的な擬似宗教に過ぎない。こんなものは百害あって、一利なしである。
日本の保守反動勢力の論法は、A級戦犯なのか、BないしC級戦犯なのかは、東京裁判における占領軍側による恣意的な区別に過ぎないとすることが多い。そして、東京裁判における問題点は、罪刑法定主義に則ったものではなく、戦争犯罪を裁く法のないところで、過去に遡って無理に裁判をしたものであると主張するのである。そして、日本においては、ヒットラームッソリーニのような独裁者は存在しなかったから、A級とB級の区別は曖昧であるとし、戦争責任を曖昧化し、最終的にその責任を回避しようとする。
こういった議論に対しては、自身で判断し、決断し、自己責任を取るという個人主義が確立されていない点が、日本的ファシズムの元凶であり、そういった状況を現在も温存させ、自己正当化を図ろうとする保守反動勢力に問題があるのだと切り返すことが必要である。
なぜ、国家神道を、そして靖国神社の存在そのものをも否定しなければならないかといえば、靖国神社を中心とする国家神道のシステムが、ファシズムの死の美学を完成に至らしめるものであり、それによって帝国主義的・植民地主義的国家政策を遂行する殺人マシーンを生産し、さらには次世代の殺人マシーンを再生産することに貢献するからである。
このシステムは、国家のイデオロギー装置であり、特高警察という物質的暴力によって統制しようとする国家装置を補完し、低コストで円滑に帝国主義的・植民地主義的国家政策を遂行できるようにする機能を持っている。靖国神社とは、そういった殺人マシーンを生産・再生産させる国家装置の重要なパーツなのであり、これを除去することにより、国家神道を完全に止めることができるのである。
帝国主義的・植民地主義的国家政策とはなにか。それは、自国民のために、他民族を犠牲にしてもいいという方策であり、他民族の宗教・思想・信条のみならず、その生命をも、自国民の利益のために自由に奪ってもいいという思想に基づく施策なのである。
無論、靖国神社に参拝する遺族の人々は、平和を願っており、犠牲者となった親族のために参拝するのであるが、それを利用する政治家は、そういう遺族感情とは反対に、戦争すら実行可能な近代的な主権国家にし、将来的に世界に覇権を振るうために参拝するのである。
遺族会の本当の敵は、靖国神社にある、というべきである。なぜなら、靖国神社を中心とする国家のイデオロギー装置こそが、加害者にして被害者という立場に親族を追い込んだからである。つまり、遺族会の目的は、戦没者の追悼と平和の祈願にあるのだが、親族を戦没者に仕立てあげた殺人生産・再生産システムの本元に参拝しているということだ。これはある意味、戦没者が甦っても、再び戦地へ行けといっているようなものだ。
これは、戦前・戦中、ある特定の宗教が国家によって優遇されて、他の宗教の上位に置かれており、現在も習俗・慣習として部分的に残存している問題だけではない。かつてアジアの民衆に対する非道な残虐行為に駆り立てた危険な宗教が、今も残存しており、新帝国主義新植民地主義が台頭する現代にあって、再び日本社会の表舞台に暗い影を落とそうと妖しい胎動を始めたということなのである。
この日本的ファシズムの頭の部分を斬り落として、無頭人にしておかないと、将来的に何億、何兆の人の死を生み出すかも知れないということである。
誤解のないように言っておくが、これは違法行為の挑発ではない。投石行為とかは、何の足しにもならないし、むしろ逆効果ですらある。そうではなくて、法的に日本的ファシズムの元凶を抹殺しておくべきだということである。