地域通貨について

[以下はミクシィに発表した原稿である。表題を変えて、掲載する。]
愛・地球博で、現在、何を残そうかという議論がなされているそうである。「サツキとメイの家」に関しては、他の地方自治体から欲しいという要望も来ているそうである。ただ、「サツキとメイの家」は、維持費が相当かかるらしく、わざと老朽化されてあり、しかも時代を考慮した材料が使われているため、パーツを交換するだけでも大変だという。
長久手会場は、かつて愛知青少年公園だったところであり、当初、瀬戸の「海上の森」(かいしょのもり)を中心とする地域をメインにする予定だったが、ここはオオタカなどが生息し、植物に関してもオオミズゴケやササユリなどがあり、破壊すると回復が不可能であることから、計画が大幅に縮小され、長久手メインになったという経緯がある。(とはいえ、当初のプランよりましとはいえ、環境万博なのに、環境破壊の上に成り立っていることは完全否定できないだろう。)だから、愛・地球博が終わると、長久手は名称は変わるかも知れないが(例えば愛・地球博記念公園といったふうに)公園として残ることは間違いなく、空中回廊「グローバル・ループ」を残すのがいいではないか、という案が出ているそうだ。
さて、万博の中で地味ながらも、地球温暖化防止や循環型社会の創出のための地味な試みが行われている。EXPOエコマネーというのが、それである。これは、万博会場や会場外の協力店などで、エコ活動に参加する、または地球温暖化防止や循環型社会に繋がる推奨品を購入した(あるいはレジ袋をもらわないといった行為をした)際にもらえる地域通貨であり、これをためると、地球にとっていいものがあたる懸賞に応募できたりするというのである。
私は見逃してしまったが(そもそも仕事の関係で、いつでもいけるわけではない)地域通貨LETSの創設者マイケル・リントンを招いて、地域通貨サミットが万博会場で先月行われたらしい。
http://www.expo-people.jp/projectlog/details/project_details.php?pid=107
マイケル・リントン、西部 忠、Q-Project というと、柄谷行人が提唱したNAMの運動を想起する。柄谷行人は、カントとマルクスに論及した『トランスクリティーク』(批評空間)で、資本制=ネーション=ステートに対抗する生産協同組合を提唱し、その基礎として地域通貨Qを導入しようとしたのだった。
地域通貨の役割は、こうである。資本制=ネーション=ステートに対抗する生産協同組合がない場合、世界はグローバリセーションの嵐の中に置かれ、アメリカが不況になれば、われわれの住む世界も不況になる。しかし、生産協同組合があり、ここで地域通貨が流通していれば、不況の嵐の直撃が避けられる。資本制=ネーション=ステートの経済は、利潤追求がかなめであるから好景気・不景気の波があるが、生産協同組合の中には無利子銀行があり、利潤追求による競争でなく、相互扶助が原則になっているから、極端な景気の波がない。そうした資本制=ネーション=ステートに対抗する生産協同組合は、新しい社会像を提示する、というものである。
しかしながら、NAMの試みは失敗した。私はNAMの実験がうまくいくか、注視して見ていた一人にすぎず、これは伝聞情報になるのだが、NAMの中心は、出版部門である「批評空間」であったが、この中心人物が亡くなったこともあるし(このようにひとりの人間に、責務が集中し、この人に組織が依存しているというのはよくないことだ。)地域通貨Qがうまく廻らなかったことも大きいという。(当初は、円よりも球の方が、立体的で優れているとか言っていたのだが。)
思うに、地域通貨がうまくいくかどうかは、楽しいかどうかに関係する。NAMは、柄谷ファンクラブとしてはともかく、ひとつのアソシエーションとして機能するほどの魅力に、やや欠ける面があったことは間違いない。
NAMがうまくいかなかったとはいえ、『トランスクリティーク』は現代思想がたどり着いた重要な成果だと思っている。だから、私はうまく機能している地域通貨の情報が知りたいのだ。
中沢新一の『はじまりのレーニン』(岩波現代文庫)が出た。先に出た岩波同時代ライブラリ版との違いは、あとがきがついたことであるが、ここで中沢は秘密結社やアソシエーションを、アジールの一種と看做す見方を提示している。『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)以来、中沢はアジールという空間にこだわっている。網野史学が残した最大の遺産は、アジールの意味づけである。中沢はそれを継承しようとしているのだ。アジールとは、まわりの社会とは別の原理で動いており、アジールの外での身分関係が、アジールの中では消失するのである。宗教的なアジールもあるし、民俗的なアジールもあるが、重要なことはアジールの中には自由があるということである。
ここにおいて、中沢の唱えるアジール論と、柄谷のアソシエーション論を接合し、新たな自由のための空間を創出できないだろうか、と考える。