『構造と力』を読む
[以下はミクシィに書いた『構造と力』のレビューですが、先般から約束していた京大アヴァンギャルディズム研究会の問題についても触れており、これで約束は果たせたと考えます。]
本書は、現代思想(現象学/実存主義〜構造主義〜記号論〜ポスト構造主義)の流れをチャート化し、各人がこれを実践的に応用できるように書かれている。
- 作者: 浅田彰
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 1983/09/10
- メディア: 単行本
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浅田は、人間をビュシス(自然)からズレたホモ・デメンス(錯乱したヒト)とし、ネオテニー説や早産説をその理由とする。そして、ホモ・デメンスとしての人間が生きるためには、文化=象徴秩序という人工的自然を作る必要があったと考える。この象徴秩序こそが「構造」であり、シニフィアン(意味スルモノ)とシニフィエ(意味サレルモノ)の恣意性、シニフィアン間の差異性、シーニュ(記号)の体系の共時性を特徴としているというのである。
第二ラウンドは、「記号論」である。ここで取り上げられているのは、『呪われた部分』のジョルジュ・バタイユであり、『詩的文化の革命』のジュリア・クリステヴァである。これらは、レヴィ=ストロース流の「構造主義」が、歴史的変動を説明せず、<冷たい社会>しか解明してこなかったことから、注目された思想であった。<冷たい社会>とは、熱力学の比喩を使ったもので、歴史的変動が少ない文化システムを指している。
第三ラウンドは、この「記号論」を「ポスト構造主義」の立場から撃つということが主題となってくる。本書の副題が「記号論を超えて」とあるのは、この第三ラウンドが最重要であることを指し示している。「記号論」の代表格としてバタイユが取り上げられているのは、当時バタイユを経済人類学に取り入れ、『幻想としての経済』『パンツをはいたサル』などの著作を出していた栗本慎一郎がいたからである。
(『構造と力』刊行後、このバタイユ批判に反撃しようとしたのが『テロルの現象学』の笠井潔であった。笠井潔は、栗本との対談『闇の都市、血と交換〜経済人類学講義』を出したり、栗本の『鉄の処女〜血も凍る「現代思想」の総批評』の執筆を手伝うなどの協力をしている。だが、人間主義的・現象学/実存主義パラダイムの笠井を、浅田は完全に黙殺する。)
浅田が、栗本の過剰−蕩尽理論を始末するために持ち出してきたのが、資本主義のクラインの壷モデルであった。栗本の過剰−蕩尽理論によれば、あらゆる社会システムは、太陽エネルギーの過剰によってもたらされた生命力の爆発=蕩尽によって変革することが可能ということになる。しかし、浅田の持ち出したクラインの壷は、そういった文化の周縁からの侵犯をなしくずしにし、周縁の持つシステムに対する質的差異を、貨幣という量的差異に変換し、エクスプロイット(開発=利用=搾取)するというものである。(クラインの壷においては、外部/内部の二項対立が消滅する。つまり、外部からの侵犯も、内部に巻き込むということである。この点が、京都大学アヴァンギャルディズム研究会が発行した藤田一・高浜雅士著『会報2号 スキゾ・ナルシストの冒険〜浅田彰の死亡診断書』では、捉えられていない。また、山形浩生の『山形道場』もまた『スキゾ・ナルシストの冒険』と同じミス・リーディングをやってしまっていることには、愕然とするしかない。この点に関しては、浅田彰による「『山形道場』の迷妄に喝!」 http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/i010313b.html を見よ!)過激に見えるバタイユの世界ですら、資本主義の商業システムに載れば、商品としての価値に変わり、消費されつくすのだというのである。
では、クラインの壷の持つ一定方向の生成から逃れるすべはないのだろうか。そこで要請されるのは、ドゥルーズ=ガタリのノマドロジーであり、革命的戦争機械の思想である。この中身については、本書と『逃走論〜スキゾ・キッズの冒険』、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・エディプス』と『ミル・プラトー』を読んでいただくしかない。