東風

1966年に無政府主義者毛沢東主義者(マオイスト)の学生を題材にした『中国女』を撮影したジャン=リュック・ゴダールは、1968年のパリ五月革命期に入ると、独裁的な監督であることを自己批判し、ジガ・ヴェルトフ集団の一員として映画制作を行うようになる。
『東風』は、当初政治的「西部劇=西欧劇(ウェスタン)」として構想されたが、次第に悪玉=帝国主義者、善玉=マオイストというわかりやすい表象=代理機能そのものが、資本主義の要請(早く、大量に情報を流通させること!)に基づく表象の帝国主義であるとされるに到る。何かを表象=代理する像というものは「正しい像」であると主張するが、「たんなる像」ではないか、というのである。
この映画を特徴づけるものは、のべつまくなしにまくしたてるナレーションである。このナレーションは、この映画制作集団の分析的理性の声である。この分析的理性のせいで、物語は時折中断し、長い静止画像に入る。画面は黒画面、赤画面になり、あげくの果てに画面にひっかき傷がつけられてゆく。
『東風』では、「二つの戦線を同時に闘うこと」というテーゼが掲げられる。ひとつは、帝国主義(誤った表象=代理機能に基づくハリウッド映画)であり、もうひとつが修正主義(エイゼンシュテインらの社会主義リアリズム映画)である。
このナレーションの声は、穏健なスターリン主義者は、有産階級的修正主義者であると糾弾し、アルチュセール嬢を演じるアンヌ・ヴィアゼムスキーを登場させ、『資本論』を2巻から読むように言ったアルチュセールを、徹底的にからかうのである。
これは、映画の表象=代理機能自体を批判した点で、映画史上、最も先鋭的な映画となっている。
そして、ゴダールが関わった映画の中でも、特に美しい作品でもある。
1969年製作。イタリア・フランス合作。1時間40分。イーストマンカラー。16ミリ。スタンダード。