ドグラ・マグラ
『ドグラ・マグラ』は読み終えた時点で、どこかで聴いたような唸る音を聴く。
……ブウウ……ンンン………ンンン……。
これは、時計の音なのか、それとも幻聴なのか。ああ、頭が痛い。これは私の理性が軋む音ではあるまいか。ページをめくる。やはり、そうなのだ。『ドグラ・マグラ』の最終場面は、『ドグラ・マグラ』の最初の場面なのだ。
こうして、読者は『ドグラ・マグラ』という無限のループを、永劫回帰することになり、脱出不能のどうどう巡りをすることになる。
しかも、この永遠に続く円環には、ねじれがあって、メビウスの環か、クラインの壷のようになっている。精神病院の内側と外側が、絶え間なく入れ替わり、最後に読者は自分が立っている場所がどちら側なのか、不安に駆られ始めるのである。
その不安は、『ドグラ・マグラ』の中に押しとどめることはできない。
人は『ドグラ・マグラ』を読み耽り、ふと、あたりを見回すと、街を歩いている人間が、実は解放療法を施されている精神病患者なのではないかと疑念を抱くようになるのである。
『ドグラ・マグラ』は、昭和10年(1935年)に松柏堂書店から刊行されたという。<狂気>と<正常>の関係を暴いたミッシェル・フーコーの『狂気の歴史〜古典主義時代における〜』のガリマール社の初版が1961年だから、夢野久作の探求が、いかに反時代的であるか了解できるだろう。
マインド・コントロールについては、ティモシー・リアリーが『神経政治学』(原著1977年)で、パティ・ハースト事件などを例に探求しているが、『ドグラ・マグラ』は、既に唯物科学の応用によるマインド・コントロール実験の問題にすら肉薄しているのである。
ここで、『ドグラ・マグラ』の毒性を、さらに過剰なものにしてみよう。名づけて、狂気の回路である。『ドグラ・マグラ』の様々なヴァージョンを並べる。教養文庫版、角川文庫版、ちくま文庫版、創元推理文庫版……そして、絶版の講談社文庫を途中に挟み込み……○○文庫版の『ドグラ・マグラ』を読み終えた瞬間に、××文庫版の『ドグラ・マグラ』が始まると仮定し、それを読了した瞬間に、別の文庫がスタートすることにする。そして、最後に、最初に読んだ○○文庫版の『ドグラ・マグラ』が再び始まるとしてみるのである。
なんだか、恐ろしいことが起きそうな気がするではないか。勇気のある方はお試しあれ。ただし、諸君のなかのマグマのような狂気が噴出しても、当方は責任を負いかねるので、念のため。