『マダム・エドワルダ バタイユ作品集』

マダム・エドワルダ (角川文庫)

マダム・エドワルダ (角川文庫)

例えば、D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』やW・ライヒの『性の革命』は、旧来の道徳と、性解放を認める新道徳を差し替えようとしているのだと言える。
しかし、マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』やジョルジュ・バタイユの『マダム・エドワルダ』は、そのような性解放などはこれっぽっちも望んでいない。彼らが望むことは、キリスト教教条から見て、悪の烙印を押されることであり、背徳の世界に耽溺することなのである。
ジル・ドゥルーズは言う。「ジョルジュ・バタイユは非常にフランス的な作家だ。彼は、内に母、下に司祭、上に視線を備えた文学の本質を、小さな秘密から作り出した。」(『ドゥルーズの思想』74ページ)
『マダム・エドワルダ』の世界は、『聖書』の世界とセットになっていると言わねばならない。バタイユは、キリスト教教条を覆す身振りにおいて、ほとんどキリスト教教条を保持しているのであり、自身の冒涜的行為に我も忘れるほどの悦楽を覚えているのである。仮に、キリスト教教条という禁制がなくなれば、その侵犯行為による悦楽も消滅する。だから、バタイユにとって、キリスト教教条は必要なものなのである。
収録作品を見ていこう。「マダム・エドワルダ」は、形而上学的ポルノグラフィーである。なぜ、哲学とエロティシズム文学が共犯関係を取り結ぶことができるかというと、両方とも「隠蔽−開示」の物語だからである。その物語においては、存在を覆うヴェールは、哲学者=男性がそれを剥ぎ取るためにあるパラドキシカルなものとして設定されている。「隠蔽−開示」の物語は、ミステリーの構造でもある。初めから犯人=真相が判っているならば、誰も物語を読み進めたりはしない。隠蔽は、読者を誘導される罠なのである。それゆえ「マダム・エドワルダ」は、娼婦マダム・エドワルダが「開示」して終わるようになっている。
「死者」は、エロスと死の結びつきを描いた作品である。なぜ、<死>なのかといえば、主体の解体ほどエロティックなものはないからである。
注目すべきは、「眼球譚」である。最終章で、目玉を巡るフロイト的な意味づけが過度になされている観がなきにしもあらずだが、この物語が淫猥で背徳的でありながら、あっけらかんと、明晰なイマージュを形作っている。私は、表題作よりも、この作品を高く評価する。
本書には「エロティシズムに関する逆説」というエッセイと「エロティシズムと死の誘惑」という討論が収録されていて、バタイユがエロティシズムをどう捉えているかが理解できる。<エロティシズムとは死に至るまでの生命の肯定であります。>(本書218ページ)が、その核心を語った言葉である。
バタイユのエロティシズムには、禁制/侵犯、キリスト教教条/アンチクリスト的叛逆という二項対立があり、そのせめぎあいから、めまいに至るほどの至福を感受するというわけである。
バタイユの生命哲学は、後に『呪われた部分〜普遍経済学の試み』で、政治経済の領域にまで及ぶようになる。そこでは、太陽エネルギーの過剰から始まり、それを蕩尽する行為として戦争、ポトラッチ、祝祭が挙げられる。エロティシズムもまた、過剰な生命エネルギーの蕩尽として捉えなおされるのである。
バタイユのこの議論は、超コード化された専制社会の分析には有効だが、システムを解体すること自体をシステム化した資本主義社会の分析に、ダイレクトに適用するには難があると思う。
『呪われた部分〜普遍経済学の試み』を読んだ後、バタイユの盟友ピエール・クロソウスキーの書いたもうひとつの異端経済学の書を紐解いてみよう。『生きた貨幣』が、それである。そこに、バタイユの残した難問を解く鍵が隠されていると私は考えているが、いかがであろう。