『変身』

変身 (新潮文庫)

変身 (新潮文庫)

グレゴール・ザムザは、巨大な毒虫に変身する。彼は、そのことに感情的に驚くとか、慌てるといったことをしない。また、毒虫に変身した原因の探求することもしない。このことは、グレゴール・ザムザから毒虫への移行が、この作品の前提となる公理であることを示している。この公理には、理由がない。この公理から導き出される結果を、フランツ・カフカは知ろうとするのである。
変身譚といっても、これは寓話ではない。毒虫への変身は、たとえ話ではない。人は『変身』を読むことによって、毒虫について考えるのではない。毒虫として考えるのである。
グレゴール・ザムザが、毒虫に変身することによって、グレゴールでは見えてこなかった事実が、露呈されてくる。ひとつは、社会との関係であり、もうひとつは家族との関係である。
毒虫としての社会生活とは、社会から期待される機能を、自身が全く果たさなくことである。グルゴール・ザムザは、セールスマンであったが、毒虫に変身することで、社会システムのなかの歯車としての役割を果たさなくなる。つまり、グレゴールの代わりに、毒虫をこの文学機械に代入してやれば、社会的諸関係のなかの人間存在の配置が析出されてくる仕掛けになっているのだ。
もうひとつは、家族との関係である。カフカは『父への手紙』や他の創作(『判決』など)から明らかなように強固な家父長制のもとで育った。それが、この作品の家族にも反映している。
人は、父親−母親−自己から成る家族の三角形の中で、エディプス化=主体化される。エディプス化には、権力者としての父親への反発が見られるが、それと同時に父親のポジションを奪うことによって、母親の愛情を独占できるのではないか、という心理が働く。しかし、エディプス・コンプレックスに関する精神分析的解釈については、家族というものが果たしている機能が、社会的にどういった位置づけなのかという観点から問い直す必要があるだろう。
資本主義社会のもとでの父親像というものは(カフカの父親は、カフカ商会の商売人であった。)、模範的資本主義的人間として立ち現れる。息子は、この父親が指し示す模範的資本主義的人間を学習し、脳内に刷り込み、社会の優秀な歯車として育ってゆく。(歯車というのは、交換可能な部分品であることを示す。)ところが、毒虫に変身したザムザは、家族の三角形から、立派な資本主義的人間となって巣立って行かない。どうやら、彼は家族の中で比較的理解のある(あくまで比較的だが)妹の方に引き寄せられている節が見られるのだ。
社会の中の期待される役割と、家族の中の期待される役割の治外に出てしまった人間が、どうなるのか。カフカは、自身のつくった複雑な方程式から成る文学という迷路に、毒虫を代入して算出する。
答エハ、林檎殺人事件デス!
アア、哀シイネ。哀シイネ。

こうして、あなたは『変身』の文庫本を閉じる。いつものようにTVをつける。
事件は終わったのだろうか。終わったはずだ。物語が終わったのだから。
TVのニュースが、ニートの増加という問題を報じている。NEET(Not in Employment, Education or Training)、つまり、就業、就学、職業訓練のいずれもしていないということ。
あなたは、いぶかしげに眉をひそめる。この既視観はいったい何なんだ?
「ある朝、フランツ・カフカは、不安な眠りから覚めると、自分がニートになっているのを発見した。」
ニュース報道は続いている……。
「<ニートの増加によって、国家が滅びる>と、国粋主義者が演説する傍らで、<働かざる者は、食うべからず、です。ニート化を助長するカフカ焚書にすべきです!>と、急進的な社会主義者シュプレヒコールを叫んでいます……。」

人は世界に所属するために、自己の固有性を放棄し、社会機構に組み込まれてゆく。
社会にとって都合がいいのには、誰とでも交換可能で、使い捨てができる歯車に、人間を仕立てることである。
これを拒否すれば、人はニートになるしかない。
しかし、ニートは行き止まりであり、袋小路であり、ここに立ち止まっていては、いつまでも自己実現は不可能であると思う。
<地上にひとつの場所を(ゴダール)>
そう、地上にひとつの場所を打ち立てることが必要なのだ。
世界に所属するために、自己を放棄するのではない。
自身の能力を、自分なりのやり方で、自分以外の人のために発揮することで、いつか誰かから必要とされるような人間になること。そうやって、地上にひとつの場所を打ち立ててゆくのである。
これは過酷な長期戦かも知れない。しかしながら、それなくして満足できる生など、どこにもないと考える。