大衆の利害を問う

吉本隆明の『超資本主義』(徳間文庫)には、次のような記載が見られる。就業者の人口からみても、国民総生産からみても、第三次産業過半数を占めるに至った「先進地域国家で、建設や土木工事や道路や港湾の改修など、第二次産業に属する建設業に公共事業費を投入しても、国内総生産で四ニパーセントくらい、労働人口で三三パーセントくらいが直接の効果に晒されるだけで、大部分の総生産や労働人口を占める第三次産業にたいしては、めぐりめぐった間接的な効果しか期待できないか、途中で効果が消滅してしまう」のであり、「不況対策として建設や土木工事を主体にした公共事業費の投入に期待をかける方策は第三次産業が半分以下しか占めることのない地域国家か、経済段階にしか通用しないケインズ的な(逆にいえばマル経的な)寝ぼけたやり方にすぎない。」(21ページ)

この本は1995年に刊行された単行本を基にしており、数値的には見直しが必要であるが、この論点は今日の観点からしても重要である。
アメリカのニューディール政策から始まった建設や土木への公共投資による景気回復策は、このような産業構造の変化が生じているために、機能しなくなった。
しかしながら、このことはケインズ的な景気回復策の根本原理が否定されたことを意味しない。公共投資のターゲットを、現在の日本の産業構造の中心に狙いを定めなおすことにより、なおも有効な景気回復策となる余地を残している。
では、今日の日本における政策はどうなのか。日本道路公団等、公共事業関係の見直しが現在為されているが、ここで聞かれる主だった声は、政治と経済界と官僚の癒着を巡る<倫理>的な面からの追究であり、その核には夜警国家のような「小さな政府」を是とする考え方があるようである。政府の郵政民営化の考え方の根本も、官を削り、スリムで「小さな政府」に刷新しようとする発想から来ているのである。ただ、腑に落ちないのは、その<倫理>である。
この<倫理>とは、倹約主義的恫喝であり、スターリン主義者の清貧主義やエコロジストの文明退化主義に通じるところがある。これは、高齢化社会や日本をとりまく世界の激変を考慮し、それでも公を守るためにはどうすればいいか、そういう発想から起因しているのである。その結果、小泉内閣の経済政策は、「こういった経済政策はやめよう、こういった経済政策もやめよう」という引き算の政策しか出てこないのである。守るべきものが違うのである。
吉本隆明の批評の基準は、大衆の利害にある。一番大切なものは、一般大衆にとって利益になるかどうか、である。一般大衆は、民と言い換えてもいいだろう。
一方、小泉内閣の思考の基準は、公という抽象的な概念の方なのである。それまでの政治家は、公を官と一体化して考えてきたが、公という倫理基準が危機に晒された現代に対応すべく、ありもしない抽象的概念を優先し、官を切り捨てることにしたのである。つまり、ここでは終始、民の利益は問題として扱われない。問題となるのは、公であり、それを外から支える米であり、それを内から支える財である。公・米・財の不利益に繋がるような事態を回避することが至上命題なのである。
普通、行政改革で官が削られるとなると、民の利益になるはずであるが、実は不利益になる。政府のプログラムによる郵政民営化の場合、利益を生み出さない離島や僻地の郵便局は消滅の危機に陥る。民営化しても続ければいいとはいっても、株主の不利益になることをしたということで、経営陣は背任罪に問われる危険性が浮上する。結果として、民の不利益である。つまり、行政改革には間違いないが、改革の方向が民の不利益の方向を志向しているのである。端的にいえば、行政改悪ということだ。
靖国神社を巡る問題でもそうだ。小泉総理の思考には、公のことしかない。民の不利益という問題意識が欠如しているのである。以前にも述べたことだが、靖国神社は現在は一宗教法人であるが、靖国神社自体は他の宗教法人より上位に、国家によって位置づけられることを欲している団体である。戦前・戦中の靖国神社は、日本国民ほぼ全員を巻き込む巨大なカルト宗教であった。靖国神社は、信者に対し、戦死しても、お国のために死んだのであるから誉れの死であるとして、喜悦をかんじるようにさせる作用があった。死という人間にとって一番辛いことを、喜悦に転化させているのであるから、脳内麻薬物質垂れ流しの状態にさせているとみるべきであろう。国家にとって、このような神道の悪用は、国家に対する批判をかわし、厭戦ムードを撃退するために必要であった。現在、靖国神社は、国家装置と切断されて<停止>しているが、国家装置と接続することでスイッチが入り、戦前・戦中と同じように稼動するようになっている。このような宗教に特別に肩入れすること自体、民の生死よりも、公の名誉を重視する価値体系の持ち主であることを露呈しているのである。