GS・たのしい知識 vol.3 特集 千のアジア

【書誌データ】
発行日:1985年10月15日
編集人:浅田彰伊藤俊治四方田犬彦
発行所:冬樹社

【目次】
狂言回廊
豊崎光一 スタイルの闘い(そのニ)
松浦理英子 優しい去勢のために3 肛門、此岸のユートピア
島田雅彦 アルカゴーリク(アル中)について
橋爪大三郎 ゲームと社会
宮内順子 北京服飾事情
石井康史 オン・ザ・ボーダー 禁酒法とメキシカン・ラス・ヴェガス
法貴和子 床下のフランク・チキンズ
佐藤良明 英語基本動詞研究 連載三 ”KNOW”の巻
◆特集 千のアジア
松枝到 外のアジアへ、複数のアジアへ
柄谷行人浅田彰 <オリエンタリズム>をめぐって
エドワード・サイード オリエンタリズム 序説
丹生谷貴志 Trans Europe-Asie Ex-press 歴史の<外部>
笠井潔 <オリエンタリズム>とライダー・ハガード
ドナルド・F・ラック キャセイ ヨーロッパの鏡、解釈の織布
高山宏 <アジア>のフェイクロア
山口幸夫 上海 ふたつの通りから
エレーヌ・ラロッシュ(鈴木圭介訳) なぜ<マカオ或いは差異に賭ける>なのか?
イェルジー・ヴォイトヴィッチ(鈴木圭介訳) 我々の町の過去と現在の記憶
村松伸 天安門ゴジラが出没する日
島尾伸三+潮田喜久子 虵圖筯註朱子治家格言
郭中端(編訳) 上海之騙術世界
玖保キリコ ゲイ・シンガポールGAY SINGAPORE シンガポール絵日記
エリック・アリエーズ+ミシェル・フェエール(浅田彰+市田良彦訳) Eric Allies+Michel Feher,La ville sophistiquee ソフィスティケーテッド・シティ
朝吹亮二 詩的東洋 I.Y.への手紙
松浦寿夫 東紅
藤井省三 魯迅における「白心(イノセンス)」の思想 エーデンの童話と蕗谷虹児の抒情画
西澤治彦 飲茶の話
杉山太郎 中国映画『舞台姉妹』のシネマツルギー
国吉和子 功夫(カンフー)映画 「見せる武術」の装置
市田良彦 毛沢東戦争論
生井英考 ジャングル・クルーズにうってつけの日 Vietnam War Monograph
荒俣宏 環太平洋ユートピア構想ノート あるいは大東亜共栄圏の不可能性
伊藤俊治 南島論1 バリBALI 神々と遊ぶ 神々と死ぬ TRAVELLING INTO THE LIFE,IN THE NATURE
菅洋志 バリ
小沢秋広 アルトー・バリ島演劇・メキシコ アジアを通って
岩瀬彰 「洗練(ハルース)」の変容
浅田彰四方田犬彦 ナム・ジュン・パイクへの質問
金両基四方田犬彦 ハングルの世界
上垣外憲一 ハングル論
李康列(青木謙介訳) マダン劇小考 仮面劇の現代的伝承のために
催仁浩(青木謙介訳) 訪日エッセイ
関川夏央 ソウルの練習問題
四方田犬彦 タルチェムからマダン劇へ

◆表紙・目次デザイン・本文レイアウト 戸田ツトム
◆表4写真撮影 宮内勝
【考察】
「千のアジア」という言葉は、ドゥルーズ=ガタリの『千の高原(ミル・プラトー)』や坂本龍一の『千のナイフ』を連想させるが、さしあたり、基本コンセプトは、四方田犬彦の序文(これは目次に書かれていない。P16〜17)を見れば、理解できる。
そこには「アジアは一である、と岡倉天心は宣言した。」とあり、「いま、われわれはあえて天心に逆って、宣言する。アジアなるものはどこにもない。いや、それは千の身体に砕け散って、ここ・かしこに実在している」と書かれている。
要するに、「外のアジアへ、複数のアジアへ」(松枝到)がテーマということである。
このようなテーマが浮上したのは、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリ)の存在があったからであろう。
柄谷行人浅田彰の対談「<オリエンタリズム>をめぐって」 では、日本の<オリエンタリズム>を鋭く批判している。ポイントとなるのは、次のような箇所である。
「浅田 朝鮮となると、日本古代史は朝鮮古代史の貧弱な一章に過ぎないというくらいで、影響されているというより包含されているわけでしょう」(29頁)
この箇所は、たしか吉本隆明の反発を買った箇所であると記憶する。
「浅田 まぁ、天皇については、スケープゴート理論なんかを使って、天皇は共同体の中から排除されて析出した外部であるとか、そういう上方の外部として下方の外部である被差別民と通底しているとかいうわけだけど、事実性としていえば、天皇は端的に外から来たわけでしょう。そこには、端的に外であるようなものを、内なる外部として究極的に内部化する、そういうメカニズムが働いているんじゃないか。つまるところ、それは<交通>の遮断によるものですけど。」(29頁)
ここで批判されている理論は、山口昌男網野善彦のそれである。浅田が依拠しているのは、文明の交通史観(マルクスエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』から柄谷行人が、交通という概念を引っ張り出し、生産性の意味合いを除去し『マルクスその可能性の中心』に使用したという経緯がある)であり、共同体と共同体の交通によって、文明が栄えたとする考え方である。
ところで、この対談で、柄谷は「このごろアジアを云々するときに「ウラ日本史観」をとる人が多いでしょう。(笑)」といっており、浅田が「ああ、弥生的なものに対する縄文的なものとか、常民的なものに対する山人的なものとか。で、そういうものがアジア全域と隠れた結びつきをもっているんだとか。」といっている。
柄谷は、この「ウラ日本史観」を「あれは面白いけど、結局はSF」とし、「結局また別のオリエンタリズム」になってしまう可能性があると批判している。
ところで、「ウラ日本史観」を唱えていた人物というと、コムレ・サーガ連作(『ヴァンパイヤー戦争』『巨人伝説』など)を書いていた笠井潔が思い浮かぶ。笠井のコムレ・サーガには、縄文民族解放闘争というコンセプトが埋め込まれ、山人=縄文人の側から、弥生人天皇制)を覆すというねらいがあった。その批判されている当人の論考も、この号に掲載されているのだが……。