GS・たのしい知識 vol.2 特集 POLYSEXUAL〜複数の性

【書誌データ】
発行日:1984年11月15日
編集人:浅田彰+伊藤俊治+四方田犬彦
発行所:冬樹社

【目次】
狂言回廊
草野進 管理野球とは、火事場泥棒の倫理である
ねじめ正一 五福星はわんこそば大全
豊崎光一 正統と異端あるいはラグビーとフランス
如月小春 髪型勝手論
ロジャー・パルバース浜口稔訳) 現実なんてうすっぺらな紙切れみたいなもんだ
高橋源一郎 変な外国雑誌が送られてきた日
細川周平 フィレンツェ・サッカー
関曠野 現前の神話と西欧の暴力
野々村文宏 私たちは新人類じゃない
坂本龍一 音楽図鑑スクラッチノート
糸井重里 無断上演を許可する。処女漫才台本「ぼくはガンなのだ」
中森明夫 あまりにも『おそ松くん』な現在思想(ニューアカデミズム)
田口賢司 田中康夫のもんだい あるいは元気な20代
佐藤良明 英語基本動詞研究 連載2 I”HAVE”の巻
◆特集 POLYSEXUAL 複数の性

アメリカン・ポリセクシャル
武邑光裕 性の身体測量 Sex,Esoterics,Anthropometries
伊藤俊治 セツクスシアターのフリークス FROM POLYSEXUAL TO ASEXUAL
生井英考 エメラルド・シティ あるいは彼らの魔窟(ハンディトリウム)だったところ
シルヴェール・ロトリンガー(旦敬介訳) defunkt sex 故人となり、機能を停止し、泥くささを脱したセックス

大場正明構成 FUTURE SEX
伴田良輔構成 すぐ役立つ独身者マニュアル
フェリックス・ガタリ(岩野卓司訳) <女性=生成変化(になること)>
フェリックス・ガタリ(上谷俊則訳) 欲望の解放 ジョージ・スタンボリアンによるインタビュー

[思考のコラージュ]クロソウスキー断層を測量する
ジル・ドゥルーズ(浅田彰+市田良彦訳) クロソウスキーあるいは身体−言語
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ(浅田彰+市田良彦訳) トランスセクシュアリテ 『アンチ・エディプス』からの三つの断片
ジャン=フランソワ・リオタール(浅田彰+市田良彦訳) 『エコノミー・リビディナル』からの二章

花村誠一 シュレーバー論の系譜
ジャン・ボードリヤール(上田知則+加川順治訳) オージーノアト、キミ、ナニシテル?
Ch・ビュシ=グリュックスマン(立川健ニ訳) ウィーンにおける他者性の形(フィギュール) 女性性とユダヤ

浅田彰伊藤俊治植島啓司四方田犬彦 バルチュスに始まる
松浦寿輝 バルチュスの衣裳
千葉文夫 バルチュス あたかも絵のなかに入ってゆくかのように

夏石番矢 性的犠論
石井辰彦 弟の墓[I]
え:B・シュルツ、ぶん:にしきさひこ マゾヒズム・革命・馬
西成彦 苦痛論 快感原則とは何か
ロラン・バルト西野嘉章訳) フォン・グローデン男爵
ロラン・バルト西野嘉章訳) ベルナール・フォーコン
フィリップ・ソレルス(千葉文夫訳) サドという文字(レットル)
四方田犬彦 ブニュエルと神学
兼子正勝 皮膚の言葉 バタイユからバルトへ
梅本洋一 ある劇作家の誕生 衣裳交換とサーシャ・ギトリ
西野嘉章 愛(エロス)と場(トポス) 接吻のイコノロジー
宇野邦一 「ヘリオガバルス」論
ミッシェル・フーコー(浜名恵美訳) 両性具有者エルキュリーヌ・バルバンの手記に寄せて
ウジェニー・ルモワーヌ・リュシオーニ(西澤一光+加川順治訳) 服装倒錯から性転換症へ
渡部直己 A感覚とE感覚 『少年愛の美学』の余白に
出川逸平 機巧(からくり)の性 鶴屋南北桜姫東文章』を繞って
藤井貞和 『源氏物語』の性、タブー
松浦理英子 性と生の彼方 両性具有とプラトニック・ラブ
金塚貞文 オナニーという迷路(ラビリンス)
荒俣宏 植物の閨房哲学 進化論とのかかわりに向けて
宮西計三作画 うつくしきかしら
ダニエル・シャルル(笠羽映子訳) 声の官能(エロティック)論 あるいはひとつの音楽とみなされたエロティスムについて
浅田彰構成 性を横断する声
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ(浅田彰+水嶋一憲訳) 生成する音楽 『ミル・プラトー』からの二つの断片
ドミニク・フェルナンデス(浅田彰+水嶋一憲訳) 料理万歳! 『チューダーの薔薇』La rose des Tudors (Julliard,1976) 第一章
ドミニク・フェルナンデス(三輪秀彦訳) 『ポルポリーノ』からの断片

◆表紙・目次デザイン・本文レイアウト 戸田ツトム
◆表紙写真 宮内勝
【考察】
この本の基本コンセプトは、フェリックス・ガタリ編集の雑誌『ルシェルシュ』十二号からの影響を得ているのではないか、と愚考する。『ルシェルシュ』十二号は、日本では市田良彦編訳・フェリックス・ガタリ協力『三0億の倒錯者』(インパクト出版会刊行・イザラ書房発行)で刊行されている。
浅田彰は『構造と力』で、文化記号論批判の一環で、ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』(二見書房)を取り上げた。
そこでは、バタイユは構造とその外部の弁証法の側に立つ人ということになるが、「クラインの壷」と化した現代資本主義社会からすると、バタイユ的侵犯の持つシステムに対する質的差異は、直ちに貨幣の量的差異に変換され、エクスプロイット(開発=利用=搾取)され、なしくずしになる、とされた。
バタイユを批判して、クロソウスキーを評価するのかという点については、第一号の考察で使用したブックレット『IQ84』(ペヨトル工房)でも触れられている。(20〜26頁を参照のこと)
そこでは、バタイユの先駆としてマルキ・ド・サドが、クロソウスキーの先駆としてシャルル・フーリエがいたとされ、前者は正常/異常、光/闇といった二元論がしっかりできていて、正常な社会に対抗する為の特権的な秘密結社を措定するタイプとする。
これに対し、フーリエの『愛の新世界』のヴィジョンの根本には、シミュラークル交換があって、どんどん差異化と新しい組み合わせを加速して、多種多様な倒錯を生み出せそうとしているとする。
プレ・モダンな専制的な権力の中心がしっかりある社会では、バタイユ的叛逆でも効果があるかも知れないが、構造を解体すること自体を構造化した資本主義という怪物的システムに対しては、多種多様性を認め、これを推し進める『愛の新世界』のフーリエ、および『生きた貨幣』(青土社)のクロソウスキーの方が有効であると、浅田は考える。資本主義は、ドゥルーズ=ガタリの理論では、脱コード化が進んでいるとはいえ、公理系に支配されている。公理系とは、利益追求の方向にしか進めないという生成を一定方向にする縛りのこである。この縛りを開くために、浅田はクロソウスキーを導入しようとするのである。
というわけで、本号の特集におけるマイノリティー擁護の姿勢も、そういった思想的背景を押さえて置けば、了解できるであろう。