『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』論

※以下はミクシィ発表のレビューからの転載です。
存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』は、『アクロイド殺し』(アガサ・クリスティ)である。

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて


デリダの著作は、前期と後期に分けることができる。
(1)前期。独立したテクストとして読める「論文」や「著作」としての体裁を保っていた時期。フッサールの『幾何学の起源』の序説から始まり、『声と現象』『グラマトロジーについて(邦題:根源の彼方に)』『エクリチュールと差異』を経て、『余白』に至るまでの著作が書かれた時期。
(2)後期。別のテクストの引用が入り乱れ、論述する意味内容の断片化・重層化が飽和に達し、造語・新概念が増殖し、巨大な暗号群と化してゆく時期。『散種』『弔鐘』『絵画における真実』『葉書』といった著作が書かれた時期。
(蛇足を加えれば、後期デリダには法と政治、歴史と倫理的責任を問う著作群、たとえば『他の岬』『法の力』などが存在する。)
ここで、プロブレマティックが為される。前期デリダと後期デリダの間の切断は、なにゆえか。また、後期デリダは、どうして錯綜したテクスト群を書いたのか。
これはミステリである。最初に謎があって、語り手=探偵の東浩紀が、その謎の解明に取り組むという筋立てである。
東探偵は、まず「脱構築」のロジックを展開した前期デリダに注目し、これを柄谷行人が行った『隠喩としての建築』等の「形式化」を突き詰め、システムを自壊させる戦略に似ているとして、前期デリダを柄谷の仕事に見立てる。この時期のデリダは、「脱構築」を唱えるために、「構築」に依存していた。ある「構築」に対し、否定神学的にしか、「脱構築」を表現できないでいた。
次に後期デリダに分析を進め、ここで「存在論脱構築」と「郵便的脱構築」という概念を提出し、後期デリダは、それまでの「存在論脱構築」を否定神学として葬り、新しく「郵便的脱構築」を打ちたてようとしたのだと、推理する。
ポスト構造主義を、このように二段階に分けたのは注目される。例えば、浅田彰の『構造と力―記号論を超えて』では、現象学実存主義(実体論)パラダイム構造主義(関係論)パラダイム記号論パラダイムポスト構造主義(生成論)パラダイムの概念を打ち出し、ポスト構造主義の方向性に立ってシステムからの逃走を呼びかけていた。東浩紀は、浅田の打ち出したポスト構造主義(生成論)パラダイムを、「存在論脱構築」と「郵便的脱構築」にニ分類し、後期デリダの「郵便的脱構築」を支持するのである。
こうして、物語は東探偵による推理の大詰めを迎える。後期デリダが、あのような造語や新概念がひしめき合い、他のテクストの引用や言及を多用し、駄洒落などの言葉遊びを展開し、錯綜とした重層的な意味合いを持つテクストを練り上げたのか。
それは、「郵便的脱構築」の実践としてであったというのが、本書の最終的解決である。「郵便的脱構築」は、本書に続く第二作『郵便的不安たち』で、電脳世界における電子メール送信になぞられる。送信者から受信者に、確実に郵便(メール)というメッセージが届くというのは、ロゴス中心主義的な無誤謬主義に過ぎず、郵便には常に誤配や遅延、配達不能などの事故がつきまとうということである。
初期デリダは、難解ではあるが、努力すれば判る書き方をしていた。しかし、後期デリダは、いくら時間をかけても、完全に判りきるということがない書き方をしていた。つまり、メッセージが正しく確実に遅延なく届くという根拠なき信仰を粉砕しようとしたというのである。
しかし、本当のミステリは、本書を読み終えた段階から始まる。後期デリダは、読者に一義的な意味がダイレクトに伝わらないように、あのように判りにくい書き方をした。それを、判りやすく、明晰なものにしてしまった本書は、後期デリダにとって何か。この物語の進行過程で、ひそかに殺害されていたのは、後期デリダその人ではなかったか。こうして、読者は本書の再読を開始せねばならない。後期デリダ殺害事件の謎を解くために。
東浩紀は、本書の後『郵便的不安たち(文庫版は「郵便的不安たち#」と改題)』『不過視なものの世界(対談集)』『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』『網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ(編著)』『動物化する世界の中で―全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評(笠井潔との往復書簡)』『自由を考える9・11以降の現代思想大澤真幸との対談)』などの著作、『「動物化するポストモダン」とその後』などのDVD−ROM、『波状言論』の発行などを行ってゆくことになる。
本書に続く『郵便的不安たち』では、主として世代間や(アニメと現代思想など)ジャンル間のギャップを、批評という共通言語で埋めようとするものであった。ただし、本書で打ち出された概念装置なしに、これらは主張できるものだと考えられる。
理論的な進展が見られるのは、『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』である。ここでは、ジャン・ボードリヤールの記号消費(『象徴交換と死』)、大塚英志の物語消費(『物語消費論』)を進展させ、データベース型消費という概念を編み出している。これは、トレーディング・カードの消費などに見られる新しい消費形態である。また、浅田彰の唱えた資本主義文化の行き着く方向が幼児化という説に対し、動物化という概念を提出した点でも注目される。
東浩紀は、近く『動物化するポストモダン2』を上梓する予定であり、新たな理論的展開が期待される。