笠井潔 その思想と行動の変遷

私が笠井潔さんの作品を発見したのは、竹本健治さんの『匣の中の失楽』を読んだ直後で、『バイバイ、エンジェル』と『アポカリプス殺人事件』、そして『テロルの現象学』と立て続けに読んだわけです。そのときの感想は、ドストエフスキーの『悪霊』、サルトルの『唯物論と革命』、カミュの『反抗的人間』、メルロ=ポンティの『弁証法の冒険』、埴谷雄高さんの『死霊』の系統を受け継ぐ人が日本に現れたのだなという感想と、それをミステリというエンターテイメント作品のなかで表現しようとしていることに驚きを感じたわけです。
私がドストエフスキーから埴谷雄高に至る革命とテロルに関わる思索に関心を持ったのは、これらは頭でっかちの人が説く殺人をも肯定するような理論を粉砕し、リアルの根底に至ろうとする方向性を持っていたからです。そこには、形あるものは、いつかは崩れ去り、生命あるものは、いつか息絶え、地に足のついていない観念は朽ち果てるという私の生来のニヒリズムが関係しているのかも知れません。
初期の笠井さんにおいても、これ以上引き算しようのない地点に至ろうとする傾向があると考えていました。私が初期の笠井さんに引き寄せられたのは、爆撃の後の廃墟だけが真実だというような観念のせいかもしれません。
彼らの仕事は、マルクス主義や革命思想に魂を奪われた人々が、そこに極限の自由を求めながら、無限の専制や大量虐殺を是認してしまうことに気づき、そこから離脱するために役立つものだったといえるでしょう。ただ、私の場合、マルクス主義や革命思想に魂を奪われたことは一度もなく、『テロルの現象学』を読んだときも、そもそも過去にそのような党派に加わること自体がひとつの弱さではないか、とすら思ったわけです。ただ、虚飾の空中楼閣を破壊し、泥のなかにまみえる方向を目指している限りにおいて、私の関心をひくものがあったというわけです。
しかし、違和感もありました。少し話題を変えますが、笠井さんに影響を与えた思想家に、吉本隆明さんがいます。昔、まだ冷戦構造華やかな時代に、吉本さんが『「反核」異論』という著書を出し、大江健三郎さんらによる文学者の反核運動や、当時市民運動として台頭した反核運動を批判したことがあります。その核心は、文学者をはじめとする反核運動は、ソ連に利するものであり、(その当時行われていた)ソ連の非核軍事力によるポーランド弾圧を考慮に入れていないというものでした。吉本さんは、アメリカの核に対しても、ソ連の核に対しても、批判することの正当性を否定しなかったわけですが、彼がやったのは『反「反核」』であって、文学者の反核運動に代わるどこの体制にも嫌われるような全否定の運動ではありませんでした。
笠井潔さんは、マルクス主義というヘーゲルテロリズムに起因する連合赤軍事件や、ポル・ポト派によるカンボジアでの虐殺などの出来事をもとに、マルクス主義の全否定に向かうわけですが、かといってマルクス主義の発生源となっている社会的・経済的な矛盾や対立などの諸問題を解決に導くための代わりの処方箋を用意したわけではありません。
もしも、殺人の肯定をも含むような理論を、本気で葬送しようとするならば、そのような理論の発生原因となった温床をなくすような代わりの処方箋を用意する必要があると考えます。
ちなみに、現在の私はテロルや専制というたったひとつの答えに帰結しないで、社会の諸矛盾を変革する余地はあるのだとする立場です。そうしないと、革命がテロルや専制に転化するのを恐れるあまり、現在日常的に繰り広げられている緩慢で死んだような生を追認してしまうことになってしまうからです。
今にして思えば、私もかつて『ヴァンパイヤー戦争』を夢中で読んでいた時期もあるのですが、今にしておもえば、笠井さんの小説世界に輝きを与えていたのは、当時の冷戦構造であり、マルクス主義の凋落と昭和の終焉によって、どこか気のぬけたサイダーのような感じになってしまいました。逆からいえば、笠井さんはアンチ「マルクス主義」、アンチ「日本的構築(=天皇制)」というふうに、なにかの否定によってしか自身を表現し得ない人だったということなのでしょう。
笠井さんは『<戯れ>という制度』で、蓮實重彦氏と蓮實エピゴーネンを批判し、当時の『構造と力』ブームを「ジャパン・アズ・ナンバー1」という意識の現われであるとしました。この思想界のポストモダニズム批判が方向を変えミステリに向けられるとき、竹本健治さんのウロボロスシリーズや、その後の脱格系ミステリへの批判になります。ポストモダニズムと脱格系ミステリの共通項は、スキゾであり、脱コード化であり、ジャンルが違うだけで同一の方向性を持っているといえます。
笠井さんは『薔薇の女』で、矢吹駆の目標として、天使のような生前離脱者になることを設定しますが、その後の作品ではこの主題は登場しません。これは私見ですが、笠井さんは「現象学実存主義パラダイム」の人なので、あくまでも地に足のついた考えを好みますので、天使のような生前離脱者への飛翔は無理なのです。むしろ、天使的生成変化という主題は、笠井さんが放棄した「ポスト構造主義パラダイム」の文脈で達成されると考えます。
また、最近の笠井さんは法月さんの影響もあって、ミステリにおける「後期クイーン的問題」に言及することが多いのですが、論理を突き詰めず、なぜかオーソドックスな本格のコードの擁護を展開してしまいます。むしろ「後期クイーン的問題」を突き詰めれば、笠井さんが斬り捨てた脱格系ミステリの方がラディカルであると考えます。(「後期クイーン的問題」は、柄谷行人さんのいった「ゲーデル的問題」をミステリに置き換えただけのことですので、形式化を徹底し「ゲーデル的問題」を突き詰めれば、脱構築リゾーム(根茎)に行く就くように、ミステリでは脱格系に行き着くはずです。)
こうしてポストモダニズムや脱格系ミステリに対して、分からず屋の頑固親父の役割を果たしてきた笠井さんが、脱コード化どころかコードがそもそもないゲーム業界の人気のおこぼれを貰おうとして、『空の境界』の巻末解説で、それまで全否定してきたはずの山口昌男さんの中心−周縁理論を認めているかのような記載をしたりと、理論のぶれすらみられます。
柄谷さんがかつてNAMをつくったとき、大塚英志さんなんかは柄谷ファンクラブではないかという主旨の批判をしましたが、笠井さんが中心となってつくった本格ミステリ作家クラブもまた、そういう主旨でつくったのではないのでしょうが、結果的にプロ作家の加入する笠井ファンクラブのようなものになっている気がします。と解釈しないと、『オイディプス症候群』で大賞を獲得できる理由がわからないのです。(あれが雑誌初出と違い、探偵が最初から出るように書き改めた大変な努力賞ものだということは認めますが、初期三部作なんかと比べると、ミステリの解決の驚きなどの点でパワーダウンは否めないと考えます。)
本格ミステリ作家クラブ主催の本格ミステリ大賞の選考方法についてですが、予選委員会という制度に問題があるように思われます。
例えば『本格ミステリ05』の末尾で、乾くるみさんが書いている「二○○四年本格ミステリ作家クラブ活動報告」には、本格ミステリ大賞が選ばれる過程が詳細に書かれていますが、候補作の選定にあたっては、予選委員会が開催されるとあります。
候補作については会員によるアンケートが行われるわけですが、アンケートの上位が単純に候補作になるわけではなく、予選委員会を通過しないといけないわけです。
ここで、「この作品はアンケートの上位だけど、私には本格とは認められない」というと議論が紛糾するわけです。勿論、本格の定義は、各作家によって一様ではないわけです。
「二○○四年本格ミステリ作家クラブ活動報告」によると、『○○』という作品を候補作とすることについて反対意見が出たとか、事細かに書かれています。
しかし、この予選委員会は、投票で得票数の少ないものを落したり、推薦したい三作品を投票したり、一作のみに投票することにしたり、版元が品切れなので候補から外したりと、選考方法が一様ではないようです。
いっそのこと、アンケートの上位を即候補作にしてしまえば、すっきりするのでしょうが、アンケート後、どうしても批評という審級を入れないと「本格」のジャンルが守られないと考える人がいるようです。
最大の問題は、意見の一致が見られなかった場合の選考のルールが事前に決められていないことで、ルールはその場その場の都合に合わせて用意されるわけです。これでは恣意的な印象がぬぐえず、候補作を絞り込む段階でいかようにも操作が可能な状態になっているのではないかという疑念が払拭できません。
毎年講談社文庫版の本格ミステリ作家クラプのアンソロジー集を買って応募した人から、抽選を行い、投票から大賞決定までを見学できる権利で当たるようにしていることからわかるように、主催者側も候補作決定後の選考方法については、その透明性に自信を持っていると思われますが、その前段階の候補作の絞込みには不透明さがあるように思われます。
具体例を挙げて考えてみましょう。
本格ミステリ作家クラブ
http://honkaku.com/
では、先ごろ第六回本格ミステリ大賞の候補作を発表しました。

【小説部門】※作品名50音順
 『ゴーレムの檻』柄刀一(光文社カッパ・ノベルス)
 『扉は閉ざされたまま』石持浅海祥伝社ノン・ノベル)
 『向日葵の咲かない夏』道尾秀介(新潮社)
 『摩天楼の怪人』島田荘司東京創元社
 『容疑者Xの献身』東野圭吾文藝春秋

【評論・研究部門】※作品名50音順
 『探偵小説と二〇世紀精神』笠井潔東京創元社
 『ニッポン硬貨の謎』北村薫東京創元社)※クイーン論として
 『ヒッチコック「裏窓」ミステリの映画学』加藤幹郎みすず書房
 『ミステリー映画を観よう』山口雅也光文社文庫

『ニッポン硬貨の謎』が【評論・研究部門】に入っていることに、なにか戦略的なものが感じられます。【小説部門】では『容疑者Xの献身』が有力なので、こちらに回避したということが考えられます。尤も、この点で騒ぎすぎると、批判回避のため、『探偵小説と二〇世紀精神』が浮上することはありえます。 ちなみに、ここで問題にしているのは、作品の評価ではなく、選考方法の問題です。北村薫さんが、地味だけど、読みはずれのない良質のミステリを書かれる方である事は、勿論承知しています。
ちなみに、前回、第五回本格ミステリ大賞のときも、天城一・著、日下三蔵・編『天城一の密室犯罪学教程』が【小説部門】ではなく、【評論・研究部門】の候補となり、大賞となっています。 このときは、【小説部門】に『生首に聞いてみろ』法月綸太郎角川書店)があり、【小説部門】に『天城一の密室犯罪学教程』を置いておくと有力な対抗馬になるという状況がありました。
こうした候補を絞り込む作業を行うのが予選委員会であり、この段階では批評の名のもとにいかような操作も可能です。先ほど述べたように、委員会の意見不一致の場合の選出方法すら恣意的なのですから。これから後はガラス張りになるので、操作は事実上不可能です。
本格ミステリ大賞の話はこのくらいにして、最近の笠井さんの話をします。
近年の笠井さんの話題というと、東浩紀さんとの共著『動物化する世界の中で』(集英社新書)ですが、東さんが笠井さんを相手に往復書簡すること自体が、大きな錯誤ではなかったかと思います。笠井さんは郵便的脱構築か、存在論脱構築かというような高級なところで勝負している人ではなくて、あくまで「現象学実存主義パラダイム」の人なんだと思います。尤も(まだ完成していないので、確定的なことはいえませんが)現在、『ジャーロ』に連載中の『吸血鬼の精神分析』では、自分は否定神学存在論脱構築)じゃなくて、否定信仰だから大丈夫というような屁理屈で、時代の先端を走っているかのように演出しようとしているように見受けられますが、とても無理のある議論ではないかと思います。