昨日、アニメイトで

クラッチカード20点分で、「To Heart」のメール・ブロック(非売品)を受け取りました。あと8点ありますが、たぶん没にすることになるのでしょう。
さして注目すべき新作もなく、『NEON GENESIS EVANGELION 01 TEST-TYPE』を入手しました。特典映像で、フルサイズOP「残酷な天使のテーゼ」とフルサイズED「FLY ME TO THE MOON」が入っており、ことにフルサイズOPの方は、劇場版の映像も使用されており、見ごたえのあるものになっていました。

NEON GENESIS EVANGELION 01 TEST-TYPE [DVD]

NEON GENESIS EVANGELION 01 TEST-TYPE [DVD]

このDVDのメインは、リマスタリングされた第一話ですが、第一話からし使徒は、ネルフの地下にあるものを目標として進行してくるとしか思えません。
たぶん、この餌さえなければ、使徒はこの第三東京市を襲撃することもないように思えます。
ここで、ネルフの地下にあるものを、使徒のテロス(目的)とします。
とすると、碇シンジたちは、使徒がテロスに到達することによって、サード・インパクトという終焉を迎えるのを、エヴァンゲリオンを使って、後にズラすために戦っていることになります。
使徒は、このテロスに到達し、融合することにおいて、プログラミングされた本来の自己を実現します。到達するまでは、まだ本来の状態ではなく、欠落した疎外態です。
ゼーレのねらいは、サード・インパクトによって、人類補完計画を実現することにあります。人類補完計画とは、欠けている自己を補完することです。彼らの計画は、裏死海文書に書かれています。彼らの思考は、エッセネ派をさらにラディカルにしたものです。エッセネ派は、光の子と闇の子の闘争の神話を持っていました。これは、ウルトラ化された精神主義です。光と闇の闘争を強調すると、グノーシス主義的反宇宙論的二元論になります。裏死海文書は、ナグ=ハマディ文書に近い内容なのかも知れません。
一方、碇ゲンドウは、ゼーレの筋書きを、自分の筋書きに書き換えようとしています。彼は、亡くなったユイと自分を中心とする、かなり自己中心主義的な人類補完計画にしようとしています。
これらは、すべて疎外論のさまざまなヴァージョンです。
TV版の最終話で、碇シンジは補完され、新しい自己の覚醒を体験し、周りから祝福されます。(まるで宗教のようです。)
劇場版は、この最終話のやり直しですが、TV版より二歩も三歩も先に行っています。
ATフィールドをなくし、個というものがなくなり、すべてが融合した予定調和の世界が、確かに孤独ではなくなったものの、生きる実感もなければ、自由もない世界であることが暴露され、最後にアスカは「気持ち悪い」と、補完された世界を拒絶するのです。この補完された世界とは、庵野監督にとって、アニメファンの閉ざされた関心領域と同義だったようです。
劇場版は、疎外論の解決が、実は最も疎外された状況になるというパラドックスを示し、これに反抗するのです。
疎外論の解決でハッピーエンドならば、実存主義レベルです。ところが、この作品は、その解決が暗礁に乗り上げるところまでやるわけです。
問題は、この最終話が、これを見た者にとって出発点となるということです。