かくもデモーニッシュな欲望

『瀕死の王』において、笠井潔は自身の「矢吹駆シリーズ」やコムレ・サーガとリンクするような記述を行っている。これは、以下のような理由が考えられる。
(1)ミステリというジャンル自体が、トリックの独創性を要求することから、過去に使われたトリックを除外するために、過去のミステリに言及することが多く、また、マニア性を帯びたジャンルであることから、メタ・ミステリへと転化する因子を自ずから持っているといえる。笠井潔はこうしたメタ・ミステリの累積の極限において、重力で陥没が起き、プラックホールとしてのアンチ・ミステリが生まれる条件が整うと考えており、この理論をもとに、自作においてもメタ化を図ろうとしている。
それに加え
(2)『梟の巨なる黄昏』のように、最後の小説、絶対的な究極の書物の呪縛を弾劾する主題の小説を書きつつ、それに深く魅了され、自身もそれを書きたいという不条理な願望を持っている作家であるがゆえに、完全な虚構を志向するから、ということがある。
ここで、完全な虚構について考えてみたい。

梟の巨なる黄昏 (講談社文庫)

梟の巨なる黄昏 (講談社文庫)

サルトルの『嘔吐』を例にとって考えてみる。この小説は、主人公のアントワーヌ・ロカンタンが、マロニエの木に存在の裸形を見て、その「もの」の即自性に吐き気を覚えるというストーリーであり、即時存在(存在)と対自存在(無)の相克を描く実存主義文学である。しかし、そういった主題の面以外でも、文学の形式としても特筆に価することがある。
嘔吐

嘔吐

それは、物語の話者であるアントワーヌ・ロカンタンが、最後に吐き気から逃れるために、サキソフォンの美しい調べに心奪われ、いわば芸術により救済の糸口を掴み、自身も存在を恥じ入らせるために文学の書き手となり、最終的に『嘔吐』そのものがロカンタンの書いた小説であると匂わせて終わるという自己言及的な構造を持っていることである。この特質は、後のアンチ・ロマン(反小説)、ヌーヴォー・ロマン(新小説)に影響を与えることになる。
笠井潔の『瀕死の王』は、最終的に自身をモデルとする「宗像冬樹」を、「矢吹駆シリーズ」やコムレ・サーガの書き手に仕立て上げ、結果的に、大文字としての作者である笠井潔を消そうとする。それは、『嘔吐』をロカンタン作に仕立て上げようとするサルトルの試みの反復である。
まず、(1)のメタ化の極限において、ブラックホールとしてのアンチ・ミステリが発生するという説について検討してみよう。アンチ・ミステリの代表的な作品、『黒死館殺人事件』はメタ化の極地であるが、小栗虫太郎は愉しんで、いわば探偵小説に淫して、このような怪物的作品を生み出した。笠井は感性の要求ではなく、理論の要求に基づき、メタ化をやっている。彼が淫しているのは、理論をこねくり回す方にある。これは、なにか似て非なるものに向かっている気がするが、どうだろう。(理論をこねくり回すタイプは、自分もそうなので判るが、時として壮大な錯誤に陥ることがある。読み手は、その点を心して読解すべきである。)
(2)の試みについてあるが、最近ではコミック版『多重人格探偵サイコ(I)』に、田島昭宇×大江公彦というクレジットで、少数部数刊行した大塚英志がいる。
多重人格探偵サイコ’ (1) (角川コミックス・エース)

多重人格探偵サイコ’ (1) (角川コミックス・エース)

http://psycho.web.infoseek.co.jp/data/ver0.html
ちなみに大江公彦は、大塚作品の話者であり、『東京ミカエル』や『冬の教室』等にも登場する殺人者である。大塚の場合、マニア心理を読み解き、彼らにウケるにはどうすればいいかというゲームを愉しんでいる。大塚という名前を消すことは、たんなる悪戯なのだ。
東京ミカエル―Seventeen’s wars (上) (ニュータイプ100%コミックス)

東京ミカエル―Seventeen’s wars (上) (ニュータイプ100%コミックス)

冬の教室 (徳間デュアル文庫)

冬の教室 (徳間デュアル文庫)

しかし、笠井の場合は、悪戯ではなく、絶対的に完璧な作品を要求するがゆえの行為なのだ。完璧な作品は、作者が誰かということは問わない。作品自体が、人々を瞠目させるというわけだ。笠井の欲望は、自身の作品によって、世界を止めることにある。これが権力欲でなくて、何であろうか。
(本出張所にて上記の下書き作成後、アレクセイの花園に若干の加筆をほどこし、投稿いたしました。)