少年回廊BBS http://haruka.fool.jp/cgi/bbs2/light.cgi に、江藤蘭世名義で投稿した原稿。

[1204] 詩的言語の奔流 投稿日:2005/02/16(Wed) 00:14
『複数の問題』という言葉で、ふと思ったのですが、竹本健治の小説の主人公は、ひとりがすでに複数であることがあるように思います。『腐蝕』や『クー』、『クレシェンド』で、タイポグラフィーの実験のように、言葉の奔流が起き、暴力的なまでのうねりが見られることがあります。竹本健治の小説のヒロインたちは、ぎりぎりの限界状況にぶち込まれ、自我ができる前の言葉がざわめく場に至ります。主人公たちは、社会的存在であることを止め、自我の境界が曖昧なところまで追い詰められるのです。漫画でもそうです。『入神』なら205ページから208ページあたりのところなんか、完全にぶっとんでます。こういう箇所を読むとき、私は凄く嬉しくなってしまいます。(私はよく判らないことをいっているのでしょうか。たぶん、判りにくいでしょう。書いている本人も、うまく云えなくてもどかしいのですが。)
文学史の観点からすれば、タイポグラフィーの実験なら、アポリネールやダダの運動がやっているということになるのでしょうが、深層心理の襞にまで降り、生命の底から湧き上がっている言語のざわめきを表現するのに使っている点が、竹本健治のユニークな点だと思うのです。

[1208] ポリーニとスキゾ 投稿日:2005/02/17(Thu) 11:49
マウリツィオ・ポリーニというと、浅田彰の『ヘルメスの音楽』に収録された「最後のピアニスト〜マウリツィオ・ポリーニ を聴く」を思い浮かびます。
あるいは浅田による「交叉点に立つポリーニ」を。
http://eee.eplus.co.jp/otoha/picks/2_001.html
浅田彰というと「スキゾ」ですが、ウロボロスも「スキゾ」です。なにかのためにというと、次第に「パラノ」になりますが、そういった足枷から自由に、自分の愉しみを追求すると「スキゾ」になります。