何も反省していない

本日の中日新聞の朝刊に、靖国神社A級戦犯分祀問題に関する見解が掲載されていました。
その要旨は、以下の通り。
A級戦犯分祀は、ありえない。
東京裁判の結果については、国際法上議論の分かれるところであり、靖国神社としては戦犯というものはない、と判断する。
A級戦犯岸信介が首相になったくらいだから、日本人は戦争犯罪を日本は犯していないとしていると看做すことができる。
・国のために命を捧げた人を奉っているのだから、通常の宗教法人以上の扱いを国がするのは当然である。
この記事には、高橋哲哉・東大大学院教授がコメントを寄せています。以下のURLを参照してください。
http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20050605/mng_____sya_____000.shtml
このコメントを読んで、先の世界大戦において、靖国神社が社会的・政治的に機能したのかということについて、まったく自覚的でないと思いました。
こういう団体と、現在の日本国は接合実験を行い、再度、国家のイデオロギー装置として機能させることができないか、考えているわけです。
しかし、この首相の行動には、次のようなパラドックスを抱えています。
靖国神社の方向性は、他の宗教法人以上の優遇された地位を確保することであり、その方向性は究極的に反米愛国を志向します。しかしながら、日本国首相は、親米の看板を下ろそうとはしていないのです。
他の宗教法人以上の優遇された地位を獲得するなどということは、フリー・メイソンのプログラムに書かれている事とは到底思えません。
靖国べったりの閉鎖的ナショナリズムは、将来的に日本を、アジアのみならず世界のなかでも孤立する方向に連れていく可能性があります。