靖國といふ悦楽

高橋哲哉の『靖国問題』(ちくま新書)は、2002年4月大阪地裁で行われた靖国神社への首相参拝の違憲確認・差し止めをめぐる裁判で、首相参拝支持派が提出した岩井益子の陳述書を引用する。岩井益子は、夫が靖国神社に合祀されており、「靖国神社を汚すなら私自身を百万回殺してください。たった一言靖国神社を罵倒する言葉を聞くだけで、私自身の身が切り裂かれ、全身の血が逆流してあふれだし、それが見渡す限り、戦士達の血の海となって広がって行くのが見えるようです。」と陳述するのである。
前回も書いたことだが、靖国神社は1869年(明治2年)に建立された東京招魂社が前身であり、明治12年(1879年)靖国神社と改称された神社であり、歴史の浅い、政治目的でつくられたご都合主義的な神社に過ぎない。それが、このような強烈な信者を作り出すのはなぜなのか。
靖国問題』の第一章は、本来、親族の戦死という哀しいはずの出来事が、悦びに転化してゆく事例を挙げ、それを「感情の錬金術」と呼ぶ。
「感情の錬金術」の秘密は、戦死者が顕彰され、遺族もまた「靖国の母」「靖国の妻」として称えられることにある。悲しみが喜びに変わる核心には、天皇制とリンクした国家神道の要(かなめ)としての靖国神社がある。
しかし、「靖国神社を汚すなら私自身を百万回殺してください。」という言葉は、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』に付けられたジャン・ポーランの序文「奴隷状態における幸福」を連想させる。マドモアゼルOは、完全に自由を奪われ、すべての選択を剥奪された状態で、逆説的に幸福を得るのである。この証言者もまた、夫の命を国家に奪われながら、奪った国家の自己正当化のための装置を、全霊を賭けて守ろうとするのである。一体、これは何なのか。
靖国神社とは、自らの命も国家のために捧げる覚悟をした「戦士」と、自分の息子や夫を死地に喜んで送り出す「靖国の母」や「靖国の妻」を、大量に再生産してゆく国家のイデオロギー装置であり、戦死の悲しみをイデオロギー効果によって見えなくさせ、悲しみから国家への恨みや離反が起きないように、欲望の流れをコントロールする装置であるが、そこには、神道のノウハウの黒魔術的転用がなされているのである。
古来からの神社の目的は、五穀豊穣や病気平癒など本来そなわった自然(じねん)の力を引き出すことに主眼が置かれていることが多いが、靖国神社においては、日本の敵を攻撃し、殺戮することに快感を得るようにセットされ、信者たる日本国民全体を一人残らず殺人淫楽症に仕立てるようにしているということである。
まず、普通の人間を、大量殺人者に人格改造するにはどうすればいいのか。金銭欲や物欲の類いでは、大量殺人にまで発展しない。大量殺人をさせるためには、この殺人が善であるというロジックを、その人間の頭脳に徹底的に刷り込むことが必要である。日本の場合、そのロジックとは、皇国史観であり、大東亜共栄圏構想である。日本が西欧の列強による植民地化からアジアや環太平洋地域を防衛するという名目のもと、日本自身の植民地政策が正当化され、その障害となるものの排除が当然視されるようになるのである。
無論、圧倒的な権限をもった司令者が、「奴が敵だ。奴を殺せ。」と命令し、その命令に従わない場合は、暴力を伴う制裁をちらつかせるという手もあるだろう。その場合、命じられたもののなかでは、絶対的なものの前での倫理的判断の停止が起き、良心が麻痺した状態で、命令の実行が行われることになる。
しかし、権力の側からすると、あらかじめ自身の目的達成のための殺戮を善とするロジックをつくり、これを被支配者に刷り込み、内面をロボット化しておくほうが効率的である。つまり、言語によって、人間をコントロールさせるのである。刷り込まれた人は、殺戮を善なる行為と確信し、自身をその行為を遂行するために選ばれた者であり、栄光に包まれていると思い込むようになるだろう。こうして、次第に殺される側の痛みが見えない人間になってゆくのである。ロジックの体系は、そのロジックの都合の悪いことを見えなくさせる作用がある。
また、前述の陳述書には、「戦士達の血の海」があるが、この言葉は靖国神社の核心部分を示唆するものである。血と宗教的エクスタシーの関連について考えるためには、ジョルジュ・バタイユの『エロスの涙』に収録されたブードゥー教の鶏の血を浴びた信者のトランス状態の写真を連想すると判りやすい。靖国神社もプードゥー教も、本質的な共通項が見出せる。それは供犠ということである。ブードゥー教徒は、鶏の血によって、靖国神社は他民族の殺戮に、我を忘れるほどの悦楽を覚える。一旦、供犠とともにA10神経に脳内麻薬物質ドーパミンが流れるようにセッティングされると、繰り返し至上の悦楽を得ようとするようになるのである。