右と左の全体主義を同時に斬るということ

先日、ジャン・ポーランによる『O嬢の物語』の序文を、靖国神社の信仰の心性を解明するために、参考までに引っ張ってきたのだが、これは笠井潔が『テロルの現象学〜観念批判論序説』の「第五章 観念の逆説」で使用している批評の方法なのである。

笠井潔は、左翼テロリズムを批判するために、ウルトラ化された精神主義、その帰結としての肉体嫌悪の事例として、『O嬢の物語』を導入するのである。
戦争による死という悲しい出来事を、喜びに変えるという靖国神社による「感情の錬金術」(高橋哲哉)は、笠井潔の術語を適用すれば「観念の倒錯」となる。
「観念の倒錯」という観点から、左翼テロリズムと、靖国の精神と両方を斬ることができるということは、左翼を毛嫌いしている靖国にとって、どう了解されるのであろうか。
悲しいことは、悲しいことであり、喜ばしいことは喜ばしいことである。
高橋哲哉は、『靖国問題』(ちくま新書)のなかで、「靖国信仰から逃れるためには…悲しいのに嬉しいと言わないこと。」(51ページ)といっている。
だが、これが「観念の倒錯」という点で、左翼テロリズムと同型の心理パターンを示しているとなると、「悲しいのに嬉しいと言わないこと」は容易なことではない。
倒錯していない精神と、「観念の倒錯」とでは、「観念の倒錯」の方が、他者に対する思想の感染力の面でも、人格を支配する面でも圧倒的に強い。
例えば、戦争推進者に「戦争は悪である」と言っても、納得しない。なぜなら、戦争推進者は、敵を殺すことが善だと考えているからである。殺人が悪と自覚している人間は、大量に人を殺めることができない。善だと確信し、陶酔しきっている人間だけが、歯止めのない殺戮を展開するのである。
この場合、「戦争は悪である」ということは、戦争推進者の思想体系の外部であるが、戦争推進者は「戦争は悪である」というメッセージを認知した瞬間に、これを自らの思考システムの内部に取り込む。たとえば、「戦争は悪である」という考えを持つ人間は、国際政治の現状の無知に由来するものであり、私の考えで教育し、導いてやる必要があるというように。認知とともに、それを内部化するための言語作用が働くのである。
だから、悲しいことを喜ばしいことだと感じている人に、「悲しいのに嬉しいと言わないこと」という思考の外部を突きつけても、それを内部化し、自らの思考システムをより強固なものにするだけである。これは、ウィルス感染症に対して、薬物療法を行い、完治至らしめることが出来なかった場合、ウィルスがその薬物に強い耐性菌になるのと似ている。学習により、より万能の思考システムを手に入れるのだ。
だから、この思考システムを突き崩すには、内部からそのロジックを徹底し、矛盾を発生させるしかない。倒錯のない世界を突きつけるのではなく、より倒錯した、観念によって爛れきった世界を突きつけること。そして、その極地において、思考システムの外に、あらゆる生命の流れを多方面に解放するのである。