追悼・倉橋由美子さんの文学について

[以下は、ミクシィに発表した原稿の再録です。]
倉橋由美子さんが亡くなった。
倉橋さんの小説を読み始めたのは、中学生の頃だった。初期の倉橋さんは、サルトルカミュカフカの三位一体ということを言っていて、私はこの三人も読んでいたのだが(但しサルトルの読書のピークは、大学の頃であった)、こうした現代文学現代思想の世界への導きの糸となってくれたのは、倉橋さんの文学だったと思う。
それと同時に、倉橋さんは、文学や哲学の解毒剤の役割も果たしてくれた。彼女にとって重要なことは、精神の自由な運動であって、文学的人間のなよなよも、難解な哲学を重々しく語る人間も、精神の自由な運動を妨げる限りにおいて排除された。ここが、倉橋さんの健全なところで、彼女はstyle(文体)ということを重視したのだが、文体の軌跡によって、精神の自在な運動を記録し、セロニアス・モンクオーネット・コールマンのジャズのように、読む者の心を解き放たせようとしたからだ。(これらは倉橋さんが好んだ音楽だった。)
倉橋さんの初期の作品に『暗い旅』がある。この作品は、竹本健治の『カケスはカケスの森』と同じく、二人称小説であり、読者は<あなた>と呼びかけられ、倉橋さんのつくった迷宮のようなブルー・ジャーニーを生きるのである。これなども、読者参加型の小説だと思う。
或る意味で、倉橋さんは私の文学の冒険の出発点となった人であり、倉橋さんの反世界文学との出会いがなかったら、澁澤龍彦幻想文学に手を伸ばすこともなかったと思われる。
作家にとって、読者が本を読み、イマジネールな世界を愉しむのが本望だと思われる。とすれば、倉橋さんの追悼にふさわしい行為は、倉橋さんの残したさまざまな小説を愉しむのが、最良かと思われる。
今はただ感謝をこめて、追悼の意を表するばかりである。