天啓の涛 (うねり) III
以下は、ミクシィに発表された笠井潔に対する『天啓の宴(うたげ)』、『天啓の器(うつわ)』のレビューです。
このレビューは、小説形式を採用しており、HP「薔薇十字制作室」で公開している小説『天啓の骸(むくろ)』の全面改稿版となっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そのとき、パーン、パーンと拳銃を撃つ音が聴こえ、「警官が撃ってきた。」という叫び声がどこからか聞こえてきた。
静かだった集会会場に動揺が入り、「どこだ。どこだ。」という声とともに、「撃たれる。撃たれる。」という悲鳴が聞こえた。騒然とした参加者たちは、自分たちが危険にさらされると思い、慌てて公園の外に出ようとした。そして、公園の周りを取り囲んでいた警官隊ともみ合いになった。
ジベールは、信じられなかった。武器を持たないものに、警官とはいえ、いきなり発砲してくるものだろうか。
公園の隣のマンションの硝子が反射して、ジベールは手をかざそうとした。
そのとき、再度パーンという音がして、ジベールは胸を押さえた。ジベールは前方から撃たれたのだ。
ジベールが倒れると、背後にいた棟方が駆け寄った。
そして、棟方は「救急車を。救急車を、早く。」と叫んだのである。
しかし、その叫びもむなしく、銃弾はジベールの胸の大動脈を掠めており、おびただしい血を流しながら、まもなくジベールは絶命した。
ルナールとジベールが故人となった後、ふたりの指導教官であった私は、ルナールは、家族と離反して暮らし、ジベールのまた孤児として生まれ、苦労して大学を通う身であったこともあり、ルナールの手帳と、ジベールの手記を入手することになった。
「天啓の骸」は、ふたりの残した手帳と手記をもとに、私が再構成したものであった。
わたしもまた、ふたりの死に関して、棟方を疑っていた。
「天啓の骸」を書かせたのは、ふたりへの想いと棟方の告発のためであった。
その後、キャレ警部を通じて、捜査状況を確認したところ、ルナールのアパルトマンの天井裏から、電気工事技術者のものと考えられる毒物入りの吐瀉物が少量見つかったという。また、最近つけられた足跡で電気工事技術者以外の足跡が2名発見された。このうち、一人はジベールのものと判明したため、もうひとつが犯人のものと考えられた。
しかし、靴の線は、大量生産品で、どこの店でも置いてある品で、入手ルートの特定はできなかった。犯人の靴底の付着物と、306号室からの天井裏への入り口に置かれた埃は、同一のもので、ルナールのマンション付近の砂などが混じっており、この線でも犯人の特定には至らなかった。レンタカーの捜索に関しては、パリの業者をしらみつぶしにあたったところ、11月3日に、偽造免許証で車を借りた男性が1名あるとわかったが、業者は男の顔をよく見ておらず、免許証の写真は他人のものである可能性が高かった。この免許証の偽造の線では、最近法外な料金で、パスポートなどの偽造を行なう闇業者がサン・ドニ街に多く、そのうちのどれかと考えられたが、特定は出来なかったという。電気工事技術者の死体を隠した場所については、ブローニュの森などが調べられたが、いまのところ発見されてはいない。錘をつけて、セーヌ川に落とした可能性すらあり、ある程度隠し場所の目星がついていないと、捜索は難航しそうであった。注目すべきことは、306号室と304号室のドアの鍵を、解体して中を調べると、シリンダーに無数の傷がついており、針金状のもので引っ掛けて、鍵の開け閉めを行なったことが推定できるという。
また、ジベールが死に至った政治集会の場では、実際に銃弾が発射されたのは、ジベールに貫通したライフル銃だけで、警官隊が発射した事実もなければ、発射された痕跡もなかったという。キャレ警部は、最初の二発の銃声や悲鳴などは、おそらくどこかに仕掛けられた録音テープを流したのではないかという。つまり、会場を混沌に陥れるための悪戯である、という。はたして、ジベールに向けられた銃弾は、どこから発射されたのか。最大の容疑者である棟方は、犯行がなされたとき、ジベールの背後におり、前からジベールを撃つことはできないはずである。キャレ警部もまた、その点を疑問に思っていた。キャレ警部は、棟方に共犯者がいるのではないかと推測し、その線を当たっているといった。
私は、ジベールが絶命した集会会場にいってみた。そして、そのままになっていた演壇の上に立ってみた。ジベールの胸を貫通するには、どの方向から撃てばいいのか。
私は公園の隣のマンションにいってみた。管理人にきいて、公園側に空室がないか、尋ねてみた。
3階にひとつだけ空室があった。管理人に頼み込み、その部屋を見学させてもらった。窓を開けると、公園が見えた。
演壇の位置は、その窓から近く感じられた。窓枠を良く見ると、下の方にへこみが見つかった。これは、以前からあったものか、と管理人は知らないといい、以前住んでいたものがつけた傷かも知れないと答えた。
私は、窓と反対側の壁のやや上の方に、緑のピンが打ち付けられているのを発見した。これについても、管理人は知らない、といった。
私は、この発見をキャレ警部に知らせることにした。おそらく、この部屋の入り口の鍵についても、中を解体すると無数の引っかき傷が見つかるはずである。
私の推理はこうだ。
窓枠の傷は、ライフルの銃身がずれないように固定するためのものだ。ライフルの引き金には、紐をくくりつけるが、引き金から外れないようにするために、紐はやや上から引っ張る必要がある。緑のピンを支点にして紐は、モーターにくくりつけ、電流が流れるとモーターが回転し、紐を巻き取るようにする。モーターは、時間がきたら流れるように、時計をタイマー代わりにする。
しかし、犯行方法が判明しても、犯人の特定には至らない。棟方は「灰色」で留まるのだ。
棟方が殺害したと疑われる人物は三人いる。
第一は、ルナールであり、生きていれば、あり得たかも知れない、テロリズムに帰結しない、もうひとつの革命の可能性である。
第二は、電気工事技術者であり、ルナールが生きていれば、死なずにすんだかもしれない、名前すら知らない一般人である。
第三は、ジベールであり、生きていれば、生前解脱者として、超越的なものを志向するものにとっては指針となりえたかも知れない存在である。
この三人の死は、とてつもなく大きい。
その後、事件から二十年近い年月が流れた。
キャレ警部の必死の調査にも関わらず、棟方を犯人とする決定的な証拠は発見されず、棟方はのうのうと生きている。
「観念論」を書いていた棟方は、あの事件のあと推理小説の書き手となり、ほとぼりが過ぎたのか日本に帰っていった。
私は、彼が推理小説作家になったのは、少なからずあの事件の影響を蒙っていると思う。
棟方は、最初の推理小説「暗い天使」で、スタンダールが『赤と黒』で取り上げたルナールではないもうひとりの名前の人物を登場させた。ルナールが語ったのは、もうひとつの革命の可能性であったが、棟方の「暗い天使」では、ただひとつの革命の不可能性が語られた。
そして、もうひとつの革命の可能性の否定によって、革命によらずして死に至るしかない無名の人々の存在に関して、主人公に「すべてよし」というセリフを言わしめたのである。
第三作目の推理小説「両性具有殺人事件」で、棟方はジベールによく似た名前の男を、生前解脱者として登場させるが、一言もしゃべらないうちに、作中で殺してしまうのである。
ようするに、棟方には生前離脱者というものが理解不能であるために、生きた生前離脱者を描くことが出来ないのである。
棟方は、「両性具有殺人事件」を発表後、「観念論批判」という哲学書を発表する。これは、パリ在住時代の「観念論」が結実したものである。これにより、棟方は<マルクス葬送派>とされ、思想界に認知されるに至るのである。
しかし、その時代は日本でのポストモダニズム全盛期であった。
棟方の年月をかけた「観念論批判」は、根暗のパラノとして一笑にされるのである。
棟方はマルクス主義批判を現象学に依拠していたのに対し、ポストモダニストは現象学の基盤を脱構築しようとしていたのである。また、棟方はバタイユを「弁証法を廃滅する反弁証法」である評価したのに対し、ポストモダニストは「構造とその外部の弁証法」として否定評価したのである。
小馬鹿にされたと判断した棟方は、ポストモダニスト葬送宣言を行い、「<遊戯>というシステム」を発表する。その本は、街はデリダの口真似で、<遊戯>せねばならないという声で満ち溢れているが、それは強制的なシステムにすぎず、本当の<遊戯>はそういうシステムを罵倒することにあるという主張をするものであった。
これにより、棟方は思想界で完全に孤立することになる。
棟方は、ポストモダニストの言説に、自分が殺したルナールとジベールの亡霊を感じていたのかも知れない。
なぜなら、ポストモダニストたちは、まるで示し合わせたように「天使的交換」や「天使的生成変化」といった言葉を多用し、「エンジェリック・カンヴァセーション」や「ベルリン・天使の詩」といった映画を好んだからである。つまり、ポストモダニストの理論の核心には、天使の持つ中間性の知性という問題があったのである。
棟方はしばらく「吸血鬼戦争」といったSF伝奇小説を書く。このシリーズが世間的に最も成功した作品といえる。
そして、数年後、「吸血鬼戦争」の愛読者だった者が、カルト宗教にはまり、新たなテロリズムに道を開くことになる。
棟方は再度、新本格派、もしくは推理小説の第三の波の先駆者にして、理論家というポジションで推理小説の世界に舞い戻った。
そして、子供の頃からの夢であった人々の精神的指導者になる夢を、ミステリー業界で達成しようと考えたのである。この夢は、当初思想界でなされる予定であった。一時期のサルトリがそうであったように、思想界を自分の言説で圧倒したいと考えていた。しかし、あのポストモダニストたちに、その夢は阻まれてしまった。
幸い、棟方の眼からすると、ミステリー評論の世界は、思想業界より支配がたやすいように思われた。
新左翼時代から練り上げた自分の文体ならば、赤子の首をひねるように、たやすく制圧できたのである。
こうして、棟方は推理小説研究会の精神指導者の地位を得ることが出来たのである。
しかし、天藤尚巳のウロボロスシリーズとは、あのときのポストモダニストの言説になんと似ていることか、と棟方は考える。
あのときのポストモダニストは脱構築を唱え、スキゾを称揚したのに対し、天藤のウロボロスは探偵小説の脱コードを唱え、これまたスキゾを称揚した。
しかも、天藤は自分の批評をのらりくらりとかわすだけで、あまり気にしていないようなのである。
そして、最近は自分の理解の範疇を超えた脱コード派の新人推理小説作家が、講壇社ノベルスを中心にどんどん輩出されてきている。
小馬鹿にされたと判断した棟方は、メタフィクション葬送宣言を行い、「天啓」シリーズを発表する。その本は、街は天藤の口真似で、<面白ければ大丈夫>という声で満ち溢れているが、それは大文字の作者を延命させるシステムにすぎず、本当の<文学>はそういう大文字の作者を消去することにあるという主張をするものであった。
私はルナールとジベールのために、二種類の小説を書いた。
一種類は「天啓の涛」といい、もう一種類は「ウロボロス IV」という名前の小説であった。
そして、棟方を葬送するために、ひそかに日本に帰国した。
私は、棟方が主催する推理小説推奨賞に、「ウロボロス IV」を天藤尚己の名前で応募した。「ウロボロスIV」は、天藤尚巳とそっくりの文体・内容の小説であり、天啓の骸」以上に完璧な作品である。人は、天藤尚己のことを、天藤尚巳と錯誤するに間違いない。
これは、推理小説推奨賞の第一次審査を、最有力候補として突破するための戦略であった。
あの天藤尚巳が書いたとおぼしき小説を、第一次審査で落とす者はいないであろう。
最終審査では、棟方自身のチェックが入る。
私は、代理人を使い、最終審査の前に、審査委員に渡された「ウロボロスIV」の原稿とコピーを、最終審査前に、加筆・修正をしたいと称し、完全回収して廻った。
それは棟方の「天啓」第一作のエピソードを髣髴させるやり方であった。
次に、「天啓の涛」のコピーを審査員の人数分作成し、「ウロボロス IV」最終原稿在中と封筒に朱書きして、棟方宛の宅配伝票を貼り付け、コンビニエンスストアから出した。
それと同時に、全審査委員に「ウロボロス IV」の最終原稿は、すべて棟方冬紀氏に送付したので、棟方氏から受け取っていただきたい旨を、葉書に書いて投函した。
棟方には、ふたつの選択が残されている。
前者は「天啓の涛」の原稿コピーを、審査委員に渡すことである。これは、棟方自身の社会的な死を意味する。
後者は「天啓の涛」を闇に葬ることである。これは「ウロボロス IV」が傑作との評判が高かっただけに、作品の消失によりミステリー史上の幻の作品との評価を確定的にするであろう。そして、天藤尚巳ではない、天藤尚己という大文字の作者を消すということに、棟方自身が貢献してしまうことになるだろう。そして、後者の選択をしても、棟方の社会的信用は失墜することは確実である。
いずれにせよ、証拠のない犯罪の告発として、所期目的を達成することになる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
黒樹龍思の『天啓の涛(うねり)』を紹介してきたが、無論、作中の棟方と作家兼批評家の笠井潔氏はまったく関係がない。
作中の棟方は、殺人犯で、卑劣漢であるが、笠井潔氏は、むしろミステリ愛好家の間で尊敬されるような存在なのである。
とはいえ、黒樹龍思の『天啓の涛(うねり)』は、ひとつの思考実験としては意味のある試みではないだろうか。私が黒樹龍思の『天啓の涛(うねり)』を紹介する気になったのは、この小説を良いと考えたからではなく、さまざまな難問の所在を明らかにしてくれると考えたからである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【最初から読む↓】
http://d.hatena.ne.jp/dzogchen/20051022