聖体示現(ヒエロファニー)としてのミステリ

本格ミステリのトリックを分類してゆくと、密室殺人、顔のない死体、暗号、一人二役、意外な犯人……といったものが挙げられる。(より詳しく知りたい方は、乱歩の『続・幻影城』や間羊太郎の『ミステリ百科事典』を参照されたし。)
密室殺人の場合、より完璧に閉ざされていればいるほど、読者の不可能興味を喚起させる。簡単に内と外の出入りが出来る抜け穴だらけの密室(そもそも、それは密室とは呼ばない。)では、非常に気抜けのしたものになるだろう。たとえば、近年森博嗣の『すべてがFになる』が成功したのは、コンビュータで集中管理されたほぼ完璧な密室での殺人を扱っていたからである。
ミステリに、顔のない死体が出てくることも多々あり、ミステリマニアは顔のない死体が出てくると、加害者と被害者の入れ替わりが起きていないか疑うものである。(無論、そうではない解決の場合もある。)顔のない死体という犯行の残虐性を強調した死体は、否が応でも作品世界の緊張を高める作用がある。顔のない死体の出現と共に、作品世界は日常世界と質的な差異のある異空間に変貌する。
また、ポーの『黄金虫』のような高度な暗号解読は、読者の解読欲を刺激し、緊張感のある世界に変える。
こうしてみると、ミステリが読者に与える快楽というものは、宗教における聖なるものに人間が触れたときの感覚に近いのではないか、と思われてくる。
ミステリの魅力は、不可能興味と、日常性を超えたハイテンションな世界の持つ不条理感覚にある。そして、宗教の本質が人間の生死に関わり、死を超えることにあるとするなら、人間の魂が肉体(もしくは物質)という牢獄から脱出したいという人間の持つ超越への衝動を、擬似的に満たすものとして、ミステリがあるのではないか、という仮説が成立する。
無論、ミステリに現れる密室は、それが最終的に論理的に解決されるものである以上、見かけ上完璧な密室であっても、最終的に不完全な、落ち度のある密室であることが露呈するようになっている。だから、精神が物質の密室を抜け出ようとする宗教的衝動を擬似的に満たそうとする欲望は、物語の終わりと共に挫折し、再び現実界が復元され、奇蹟は起こらない。
しかし、完璧な密室を扱ったミステリは存在する。それは竹本健治著『匣の中の失楽』で語られるトンネル効果でも持ち出さない限り、説明のつかない密室である。あらゆる密室トリックの可能性を消去した果てに見出されるトンネル効果でも持ち出さない限り、説明のつかない密室は、作品の中ですでに実現されていることによって、人間の思考が物質の壁を超える可能性を示唆し、そこで聖体示現(ヒエロファニー)が起きる。(残念なことに、これは紙の上でしか実現できない犯罪であり、これは本物の聖なるものではないのだが。)聖体示現(ヒエロファニー)とは、宗教学者ミルチャ・エリアーデの概念で、聖なるものが自らを現すことを言う。
匣の中の失楽』で語られるトンネル効果でも持ち出さない限り、説明のつかない密室へのオマージュは、清涼院流水の『ジョーカー』において、甲冑を着た死体として示されている。この甲冑は、一種の密室であり、死体はぴったりと甲冑の中にある。ここでは、甲冑の鉄の壁を、死体が通過できない、かといって甲冑の中の生体を凶器で殺すことはできないものとして設定されており、トンネル効果でも持ち出さない限り、説明のつかない密室となっている。しかしながら、ここでも仕掛けがあり、この物語中では解決できないが、より大きな別の物語(『コズミック・ジョーカー』)では解決できることが示唆される。
ともかく、本格ミステリを読むことは、不可能性の侵犯という聖なる行為に関係しているのではないか、というのが私見である。