眼が悪い〜『清涼院流水のぶらんでぃっしゅ?』に関する妄言

清涼院流水著『清涼院流水のぶらんでぃっしゅ?Special Guest 森博嗣 西尾維新 飯野賢治』(幻冬舎)について考えてみよう。
・今回の執筆は、清涼院流水氏の第一子誕生の時期と重なったこともあって、この物語の主人公常盤ナイトの胎児の時期から始まり、出産、保育、小学校入学と子どもの成長を追うはじまりとなっている。出産時に胎児の頭蓋骨がどう変形するかという話に引き寄せられる。
・常盤ナイトのなかには、語り手である「ぼく」がいて、「ぼく」がこの物語世界の認識者である。常盤ナイトは、最初幼児なので、「ぼく」が得られる情報には限界がある。常盤ナイトは、スリットのような役割を果たす。「ぼく」は限られた情報から、真実を推理するしかない。
・なぜ常盤ナイトと「ぼく」のふたつが生じているのかという大きな問題もあるが、このことは最後に合理的な謎解きがなされるので、ご安心を。
・都市伝説や言葉遊びの要素は、過去の作品にも見られたが、新しいテーマも登場している。池谷裕二氏の海馬の話や、茂木健一郎氏(←このmixi内でお見かけしましたが)のクオリアの話だ。尤も『トップ・ラン&ランド』で、短期記憶・長期記憶の話が出てきたので、この作者にとって脳の問題は継続してある主題であるといえる。
・この物語の最終解決は、たぶん笠井潔のような論者を満足させないものである。この物語は長編娯楽小説と帯に書かれているが、この物語の最終解決は、ポストモダニズムの方向性とも一致している。娯楽小説(ライトノベル)ならば、この国には膨大な数が出版されているが、笠井潔がこの作家を特に狙い撃ちをするように批判するのは、この作家のなかに笠井潔をぞっとさせる嫌ったらしいところがあるからだと思う。

ところで、最近、視力の低下が著しく、読んでいる本の文字がぼけてみえるようになった。
清涼院流水のぶらんでぃっしゅ?』(幻冬舎)を読んでいると、主人公の上級生(先輩)で、不良グループの番長のような人間が登場してくる。この人は、少数の、閉鎖的なグループをつくり、そのグループを威圧感を与えたり、恫喝的なことをしたりして、束ねていた。
主人公は柔道の道を究めたような人のような考えを持っている。強い相手から攻撃があった場合、同じ力で対抗しようとしても力の弱いものは負ける。だから、相手の力の性質を利用して、その力をちょっとだけずらしてやり、自壊する方向に導いてやるというのである。
この番長は、言葉遊びを酷使する主人公(この性質は、清涼院自身の特質でもある。)が気に食わず、いちゃもんをつけてくる。これに対し、主人公は言葉の力を使って、逆に相手を味方に変えてしまう。
この番長は、権力の行使によって人をなんとかしようとしようとしているが、それによって心まで荒廃してきている。むしろ。あなたの特質は笑いによって、人を幸せにするほうに向いている……こうして、主人公を信頼したこの先輩は、進路変更し、お笑い芸人を目指すようになる。
そして、言葉の達人である主人公に芸名をつけてもらう。主人公が悩んだ末に考えた芸名が、笑丼(わらどん)。こうして、笑丼となった彼は、関西最大のお笑い系の芸能プロダクションを目指すのである。
この後、物語のなかに、笑丼の名前が点在するのだが、どうも視力の落ちた私には、笑丼が笠井にみえてしかたがないのである。相当、酷い近視ではないか。
ちなみに、この小説には『新本格理数科少女マホ』を書いている小説家・石毛義士とか、『すべてが絵詩になる』を書いている絵本詩人もうりひろとか、『Eのテーブル』をつくったゲーム作家の絵野フィトとかが登場する。
また、コピーライターの人も登場するが、これは清涼院がほぼ毎日チェックしているという”ほぼ日”をやっているコピーライターの人を連想させる。
もしかして、登場人物すべてが、なにかの置き換えなのか???
では、笑丼とともに登場回数の多いラッパーのZENって誰?ラップで、ZEN?
この取り合わせはなんだ?
まさか。
「赤・黄・青……めまぐるしく様々な色彩が交錯する。流れているのは、今流行の<ラッコ堂>のラップ・ミュージックである。……<ラッコ堂>には、ライヴでしかやらない<ZEN>という曲がある。この曲は、道元の『正法眼蔵』を朗読した音源を、サンプリングしてつくられている。
ブースの中で、<ラッコ堂>の<ガンダルフよ、どこへ行く>をかけながら、スクラッチしているのは、<DJピルパグ>である。(宵トマト)」
いかん、いかん。眼だけでなく、脳まで腐りかけてきたようだ。

と仮説を書いてきたのだが、実のところ自信がない。
ということで、別の観点から見てみよう。この小説のラストの言葉は、「すべて良し」である。
これはキリーロフ経由(ドストエフスキー『悪霊』)というより、やっぱり矢吹駆からであると推測できる。
しかも、「すべて良し」で肯定されているのは、なんでもありの、唯一の回答を拒否する、ポストモダン的な、反エンディングだから、これほど反カケル(!)なものはない。
これを皮肉と受け取る読み方もアリ、なのかも知れない。
だから、最初に書いた説を、「馬鹿な」と思いつつ、捨て切れなれないんだよね。普通に読めば、こんな深い意味はなくて、ただのエンタメだということは百も承知ですが。
気になるのは、清涼院の『???(はてな)』という作品。これは完成しているにもかかわらず、なぜか出版業界のタブーに触れたとかで、出版できずにお蔵入りになったんだけど、出版業界のタブーってなんだろう。
但し、自分が作者で、こういう狙いで書くとしたら、笑丼はピン芸人にはしない。もうひとり、やっさんという愛称の人物を登場させ、コンビを組ませて、やすきよの再来ということにする。勿論、笑丼の下の名前は書かない。こういう作戦。