清涼院流水VS本格ミステリ作家クラブ (探偵儀式 THE NOVEL)

清涼院流水大塚英志箸井地図」による漫画『探偵儀式』が完結し、それと同時に清涼院流水による小説『探偵儀式 THE NOVEL』が刊行になった。

探偵儀式 (6) (角川コミックス・エース 109-6)

探偵儀式 (6) (角川コミックス・エース 109-6)

大塚英志原案・脚本の『探偵儀式』自体が、漫画による「探偵小説論」であり、「清涼院流水論」の試みであったのだが、清涼院流水の小説版『探偵儀式』は、それ以上に物議をかもし出す内容となっている。
とりわけ「4/消えた推理小説」である。
ここで、清涼院は「推理小説作家クラブ」に対する全面的な批判を展開している。ちなみに、「推理小説作家クラブ」は、小説中の設定でこう呼ばれているだけで、現実社会では、どうみても「本格ミステリ作家クラブ」、それも批判内容からして、「探偵小説研究会」を批判しているとしか思えない。
批判の要旨をまとめてみよう。
・「推理小説作家クラブ」は、推理小説ジャンルの衰退に危機感を覚えた推理小説作家の団体である。
・この団体は、推理小説マニアの団体であり、一般読者の観点をないがしろにして、推理小説のマニアックで専門的な問題に専念してきた。その結果、彼らの描いた推理小説の理想は、一般読者の読みたいものから乖離していった。
・彼らは大衆小説やキャラクター小説を三文小説として侮蔑したが、それらのジャンルがむしろ大衆の支持を得て、安定した市場をつくることに繋がった。
・「推理小説作家クラブ」は、自分たちに対する批判には耳をかさず、身内だけの仲良しクラブを形成していった。そこでは、権力を行使する独裁者と、それに追随するイエスマンからなる恐怖政治が行われた。
・「推理小説作家クラブ」のイエスマンとなった出版社や編集者は、彼らの要望に答えることで、一般読者に受け入れられない本を量産し、巨大な赤字収益をもたらし、出版社のなかには民事再生法を行使する事態に陥るところも出た。
清涼院流水の小説は、当初、「本格ミステリ作家クラブ」および「探偵小説研究会」で、当時オピニオン・リーダー的役割を果たしていた笠井潔によって(現在は「探偵小説研究会」を離れ、「限界小説研究会」の活動にシフトし、「本格ミステリ作家クラブ」でも主流派とは言えなくなって来ているようである。)、探偵小説の構築をなしくずしにする「脱格系(脱コード派)」のミステリとして断罪された。このような小説(流水のことばでは、流水大説)がはびこることは、探偵小説のこれまでの歴史を台無しにし、探偵小説のジャンルを終わらせてしまう嘆かわしい事態だ、というわけである。
この批判には、笠井潔の批評家としてのデビュー期において、「脱コード化」や「脱構築」を唱えるニュー・アカデミズムによって、笠井潔はネクラのパラノであるとしておちょくられたトラウマが背景にあり、それ以来、脱コード派を眼にするたびに、その経験を重ね合わせて見てしまうという個人的事情も関係していたのである。
しかしながら、笠井潔による清涼院流水批判は、終息を迎え、軌道修正が行われる。
清涼院流水の作品に、一定の、無視できない固定ファンがつき、さらには清涼院の活動にインスパイアされた舞城王太郎西尾維新の作品が、爆発的なヒットをとばすようになったからである。
仮に、清涼院を認めなければ、批評家として時代遅れとなってしまう。
そこで、笠井潔は、清涼院の小説に、キャラクターを立てるという特異な性格を認め、二十一世紀の精神状況を反映した文学の水準を達成したという一定の評価を与えるようになったのである。しかし、昔から笠井潔の本を読んできた人間の眼からすると、これは心底、清涼院を賞賛しているとか、好きになったということではなく、彼が手放しで評価するときは、もっと鮮烈な表現をとるからである、これらの評価が、文壇政治的な妥協の言葉であることがわかる。
清涼院にしてみれば、一度あのような激烈な調子で、それも幾つもの評論に渡って継続的に、批判キャンペーンを貼られた以上は、軌道修正による見解など、本当に信頼できるところまで行けるわけはなく、今回のこうした態度表明にはうなづけるものがあるのである。
無論、オーソドックスな探偵小説の好きな人は、その理想を追求するのは自由である。しかし、その理想を、周りの人に強要するとなると、さまざまな問題が発生する。
また、小説表現は、価値観を含むべきではない、という問題もある。価値観を含むものは、説教を含んだ説話と呼ばれるべきである。小説中に、自身の倫理観と抵触するものがあるといって、断罪する。これは大昔の小説観であり、説かれる思想がスターリン主義でないにしても、スターリン主義的な、目的達成のための小説という観方と共通したものがあるということになる。
これらの問題点の帰結として、今回の小説版『探偵儀式』がある、と思う。