中沢新一著『芸術人類学』を読む (その2)

※読書ノートです。私固有の考えのところには、<>がついています。『芸術人類学』に触発されて、他の事を考えたりしていますので、何かの参考になるかもしれません。
なお、ここに書かれた内容は、自分の関心事に引っかかった箇所だけを圧縮した覚え書きに過ぎません。必ず、各人『芸術人類学』の原文にあたられますようにお願いいたします。

芸術人類学

芸術人類学

【芸術人類学への道】
・数学者岡潔は、数学の理論の創造には、論理の積み重ねだけでは不十分で、「情緒的な知性」が必要であると考えていた。
・パリの留学者3人。
岡潔(数学者)
中谷治宇二郎(考古学者、岡の友人)……マルセル・モースに民族学を学ぶ。<ジョルジュ・バタイユ責任編集の>『ドキュマン』誌に縄文文化論を寄稿。
岡本太郎(画家)……マルセル・モースに民族学を学ぶ。<ジョルジュ・バタイユの盟友となり、その後、縄文文化論や沖縄文化論を執筆。>
・帰国後、岡潔は、和歌山の山にこもる。人間の心は論理的知性と情緒的知性のふたつの「部屋」で出来ている。情緒的知性で出来た社会では、働くことは同時に喜びであるが、近代に入って論理的知性が社会を貫徹するようになると、働くことは計量できる価値を生み出す労苦となり、「労働者階級」が生じる。「日本から労働者階級を無くすること。すなわち国民の一人一人が皆生きがいを感じて生きることのできる社会にすること。」と岡潔は書いているという。<岡潔版「資本論」!>
岡潔の思考の背景には、仏教がある。
ゴータマ・シッダールタ以前にも、ブッダ<覚者、悟りを得た者>は存在した。ゴータマ・シッダールタは、都市文明が発達した当時のインドで、シャーキャ族の七代も前の<つまり、とてつもない古い時代の>考えを復活させようとしたのではないか。(この中沢仮説と同じ考えを、仏教学者の宮坂宥勝もしているという。)ゴータマ・シッダールタは、「分別知」が圧倒的に優勢を占める時代にあって、「無分別知」を復活させようとしたのではないか。
・仏教におけるふたつの知
「分別知」……例えばS+V(主語+述語)構造から生じたこの世界の事物には実体があるという幻影は、分別知によるものである。<論理的知性のこと。>
「無分別知」……全体性の思考。<ホーリスティックな思考。>時間軸・空間軸・主客の分離による限定付け・論理の仕組みにとらわれることなく考えることができる。<情緒的知性のこと。>
・ところで、シャーキャ族の七代も前の考えとは、新石器時代(日本で言えば、縄文時代)を示すといっていいのだろうか。この疑問に答えるために、中沢は構造人類学を必要とした。
レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』『野生の思考』『神話論理』は、未開社会には完成の域に達した「野生の思考」があり、新石器時代に築かれた「野生の思考」の上に、現代社会が築かれているという認識を、中沢に与えた。果たして、「野生の思考」を否定して発達した現代社会の方向性が正しかったのか。
構造主義は仏教である。レヴィ=ストロースは、『孤独な散歩者の夢想』のジャン=ジャック・ルソーから、主客が合一し、自然との一体感を得た体験の重要性を学んでいる。<レヴィ=ストロースとルソーについては、ジャック・デリダの『根源の彼方に グラマトロジーについて 上』(現代思潮社)「第二部 自然(ナチュール)、文化(キュルチュール)、エクリチュール」の「第一章 文字(レットル)の暴力:レヴィ=ストロースからルソーまで」は必読。デリダは、レヴィ=ストロースの構造人類学とルソーの『言語起源論』の類縁性を指摘するとともに、両者をロゴス中心主義として批判する。中沢は、このデリダの見解をどう評価するのだろうか。>
構造主義は未開社会の「野生の思考」の解明にかけては、精密機械並みの能力を発揮したが、「野生の思考」を基盤に、人間の心の奥に踏みこんでゆくのには役に立たなかった。中沢は、この学問の限界を超えるために、ネパールに渡り、チベット密教のゾクチェンという心の学問を学ぶことにした。
・ゾクチェンは、仏教の形態をしていたが、内部には旧石器時代から継承されてきた宗教的実績があり、心の内面から放たれる光の体験が核になっており、「野生の思考」と仏教が融合していた。
レヴィ=ストロース構造主義、および人類学から学んだ旧石器的思考+チベット密教ゾクチェン+ジョルジュ・バタイユの哲学思想+縄文考古学(『アースダイバー』参照)。
構造主義の限界は、構造主義が拠って立つ言語学モデルにあった。ノーム・チョムスキーデカルト言語学>の生成文法は、あらゆる言語がS+V構造という深層構造を持つことを見出した。この言語構造は、外界の現実とアナログ的に対応しているとされる。しかし、現実とのアナログ的対応は、ほかの動物にも見られる現象であり、むしろ新人(ホモサピエンス・サピエンス)は幻想=妄想を抱くことに特徴があり、現実とアナログ的対応をしていない部分がある。これに対し、ロマン・ヤコブソン言語学は、言語は比喩で出来ており、隠喩と換喩の二つの軸で説明がつくとした。この比喩から出来ていることが「意味のゆらぎ」を発生させ、幻想の生成へと繋がるのではないか。この点を仏教はうまく把握しているが、構造主義は把握してこなかった。
ネアンデルタール人の脳よりも、新人の脳の方が容量が小さい。これは、新しいニューロン組織の結合により、流動的知性によって動く高次元の思考(対称性の思考)が可能になったためである。比喩がもとでできている神話では、登場する動物と人間などが置き換え可能であり、対称性があるという。
・精神医学の分野で、マッテ・ブランコは統合失調症の特徴を「対称性の論理」に見出し、そこに単なる病理を超えた「人間のしるし」を見出した。
・対称性の知性とは、仏教で言う無分別知である。
・以上の考えを踏まえて「対称性人類学」が誕生した。
・<読書ノートの途中で、デリダ構造主義批判に触れたが、デリダ脱構築の哲学は、外界の現実と、個人の内面がダイレクトに対応していない新人の特質をうまく表現するものであると思う。その点で、デリダと中沢のあいだの理論的整合性は成り立つ。>