『レッドブック ワルツの夜』

REのデビュー作『レッドブック ワルツの夜』(幻冬舎)が刊行された。

レッドブック ワルツの雨

レッドブック ワルツの雨

REは、清涼院流水飯野賢治のユニット名である。
この作品の特徴は、作品世界が色彩を持って視覚的にたち現れてくることにある。
すぐさま映像化が出来るようなつくり方をしているように思えるのだ。
レッドブックと呼ばれる土地で、最後まで名前で呼ばれることのない男女の物語が始まる。表面的には静謐ながらも、内的世界ではドラマが展開してゆく。テーマは罪責であり、著者の関心は終始ふたりの男女の心理に向かっている。
この作品は、特殊な印刷が施されている部分があり、ここには眼に見えない心理が書かれている。鉛筆でこすると、心の内側が綴られた部分が見えてくるようになっている。
鉛筆でこする、などというと、また清涼院のお遊びが始まったかと捉える人もいるかも知れないが、これは単なるお遊びだけではない気がする。隠された人間心理を探求しようとする文学の実験的表現方法と考えられるからだ。
この作品世界に近い作風の映像作家というとアラン・レネが浮かぶ。文学作品ではアラン・ロブ=グリエナタリー・サロートあたりが近いのではないかと思う。
人間の罪責とそれに対する赦しというテーマでは、大江の『「雨の木」を聴く女たち』がある。この作品は、構造論的に宇宙像を造っておいて、実存的に<女性性>を救済の媒介として罪ある者に慈しみの雨を降らせるという仕組みを持っており、その慈しみの雨には武満徹の音楽が重ね合わせられていた。
レッドブック ワルツの雨』でも、救済のキーワードは音楽と雨である。しかしながら、著者の関心は、人間にとっての救済とはなにかを実存的に探求する方向ではなく、人間の深層心理の析出に向かっているようである。
なお、mixi内に、本書のコミュニティが存在しており、著者のRE氏も参加している。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1674045
以下は、そこに書いた原稿の転載。

【『レッドブック ワルツの雨』について】
文学なのですが、読んでいて映像や音楽を喚起するような描かれかたをしていると思いました。
この物語には、絶望という「死に至る病」に、心を塞がれた女性と、罪責感から逃避指向になっている男性が登場するのですが、レッドブックの雨から感じ取れる世界のリズムによって、心を開かれ、それによって救済される話だと思いました。
女性と別れ、最後男性がひとりきりになるのですが、それ以降の( )内を読むと、明らかに音楽における転調のようなものが起きていると感じました。

(  )内は、当初女性の内的モノローグなのですが、最終場面では女性は男性の眼の前から去っている。
では、それ以降の(  )は、何を指し示すのか。
後半、音楽というより、リズムの方に男性の関心が向かっている。
音楽ならば、音楽による癒しである、つまり、音楽による心理的救済であるといえば納得する。
しかし、本書に示された救済の糸口は、そんな判りやすいものではなく(大江のレイン・ツリーは、心理的な救済に向かっている。)、3拍子のリズムなのである。
私はこれは、心的な救済ではなく、神的な救済ではないか、と思う。
本書には神は出て来ないが、神のような超越的なものの感覚はある。神は出てこないので、神秘主義に陥っているわけではない。
神というより、高次の自我の予兆というのが、的確なのかも知れない。
確かめてみなければ。

3拍子というのは、中沢新一の『バルセロナ 秘数3』とどこかで繋がっているのかも知れない。3は、神秘の数なのである。

バルセロナ、秘数3 (中公文庫)

バルセロナ、秘数3 (中公文庫)

薄い本なのに、まだまだ謎が隠されているということに気づく。
というわけで、またも再読が始まる。
何度読めば、謎が消えるのか。
作者の巧緻な罠に嵌っているな、これは。