『天帝のはしたなき果実』

 『天帝のはしたなき果実』というタイトルは、勿論『虚無への供物』の作者が自らに課した戒め「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない。」に由来するものであることは間違いない。この本を開くと、冒頭に『虚無への供物』の登場人物奈々村久生のセリフが引用されているのである。

天帝のはしたなき果実 (講談社ノベルス)

天帝のはしたなき果実 (講談社ノベルス)

 この物語は、1990年代の日本帝国(!)というこの現実世界とパラレルな異空間を舞台にしており、剄草館高校で残虐極まりない連続殺人が起きるというものである。このようなパラレルな異空間を創出するにあたり、作者は非常に巧緻で重厚な文体を編み出した。それは、サイバーパンクSFを翻訳するにあたって、黒丸尚が特徴のある文体を採用したことに等しい。
 作者が採用した文体の特徴は、ルビと漢字の多用にある。例えば、冒頭9ページには「生成色(ベージュ)が査古聿色(チョコレート)に染まり」といった表現が見られる。このような文体は『黒死館殺人事件』における小栗虫太郎の文体に影響を受けたとみるべきであろう。その証拠に、518ページでは「火蜥蜴よ燃え猛れ(ザラマンデル・ゾル・グルーエン)」といった呪文がみられる。これは『黒死館殺人事件』に由来し、さらに元を辿れば、ゲーテの『ファウスト』に行き着く言葉である。
 282ページで、トンネル効果に関する言及があるが、これは『匣の中の失楽』を意識したものだろう。(トンネル効果に関する言及は、清涼院流水の『ジョーカー』にも見られる。このことから『匣の中の失楽』が、その後の世代に与えた影響を見て取れる。清涼院といえば、本書の456ページに「7 ロメオのR、エコウのE」という言葉が唐突に出てきて、REには革命の意味があることが示される。このことが、RE=清涼院流水飯野賢治を指すのかどうかはわからない。また、761ページの隕石爆弾が、『カーニバル・デイ』に影響を受けたものかどうかも断定できない。ただ、古野まほろが、過去のメフィスト賞作家の作品を読んでいることは十分ありうることである。)このように『天帝のはしたなき果実』には、過去のミステリを意識した箇所が散見されるが、それだけではなく他ジャンルの様々なテクストからの引用も見られる。ただ、引用されたテクストは、原形を留めないほどに変型され、換骨奪胎されている。例えば450ページには、アドルノヴィトゲンシュタインの言葉のもじりがみられる。参照されるテクストは、書籍に留まらない。その解体の程度が凄まじいため、原形の断定はできないが、404ページ以降のカラオケシーンで取り上げられている「味蕾ひとつまで」「燃えろいま」「愛が死んだ朝」「蒼いキツネ」「抵抗できない」は、それぞれ「未来予想図II」「燃えろいい女」「愛が生まれた日」「蒼いウサギ」「愛がとまらない」のような気がするがどうだろう。
 このような文体は、読者に深読みを強いる文体といえる。解読マニアの読者にとっては、たまらない魅力だろう。その反面、軽妙で、スピーディーなストーリー展開を求める読者には、前半が退屈かも知れない。
 前半の読み方としては、なぜ作者が日本帝国などという舞台設定を選択したのかを軸に考えてゆくといいだろう。
 中井英夫の読者ならば、中井が如何に日本人の心性に対して、不信感と嫌悪感を抱いていたかを知っているはずである。それは、権威に弱く、卑屈な態度を見せる一方で、弱者に対しては威張ってみせるといった点であり、こうした心性が日本帝国主義や戦争に帰結していったのであり、こういった心性は戦後も変わっていないということである。(例えば『黒鳥の旅もしくは幻想庭園』収録の「日本人の貌」を見よ)
古野まほろは、なぜ官憲や軍人が幅を効かす日本帝国といった設定を採用したのか。それは美学的要請なのか、古き良き探偵小説への懐古趣味なのか。それとも、この設定はすべてが紙の上の出来事であることを示すのか、あるいはまた舞台上の演劇であったことの証しなのか。
 事は簡単ではない。事件の進行とともに、読者の関心は、柘榴館の図書館に引寄せられるはずだ。この図書館は、バベルの図書館であり、古今東西のすべての知の宝庫である。『薔薇の名前』がそうであるように、事件は知に関係する。この本の場合は、歴史的な知に。
 後半、『虚無への供物』を髣髴とさせるような推理合戦が始まる。すべての条件が整い、一気にストーリーは加速し始める。だから、難解で晦渋な文体に閉口して、前半で投げ出すのは非常に惜しい。この部分は、あらゆる推理小説マニアをうならせるであろう場面だからだ。そして、本書は最終的に導くのは、すべてが溶解する零地点、ミステリの領域を超えたSF的世界設定なのである。