『キララ、探偵す。』

 竹本健治著『キララ、探偵す。』(文藝春秋)は、主人公の乙島侑平のもとに、母方の従兄にあたる益子隆太郎博士から、モニタリングのためにメイド型の美少女ロボットのキララが送られてくるというところから始まる。このキララは、特定部位に接触すると、別人格のクララに変貌するようになっている。キララは昼の人格で、「なんとかですぅぅぅ」といったしゃべり方をするのに対し、クララは夜の人格で、理知的で鋭い思考をみせる。この単行本には、4つの章が収録されており、毎回事件が起き、キララ=クララが難事件を解決するという筋立てになっている。

キララ、探偵す。

キララ、探偵す。

 筋立てそのものは、実物を読んで愉しんでいただくとして、ここでは作品の端々に現れた特徴的な主題について考えてみたい。
 キララが最先端のAI(人工知能)を搭載したアンドロイドだとすると、キララについて考えるということは、人間の精神の機能について、これを<外>に取り出し、対象化して考えるということだ。
 このような操作がなぜ必要かといえば、人間が人間の精神について考えるにあたって、さまざまなドクサ(臆見)がまとわりついているからである。
 キララについて、益子博士は「キララには魂はない」と言っている。「キララに魂を感じているのは君の主観だ」とも。
 キララが人間そっくりだとしたら、それは情報を取り入れ、これを処理し、外に出す過程が、人間に似ているからだ。
 つまり、キララについて考えることは、人間の精神をシミュレーションして考えることである。
 では、キララそっくりである我々人間には、魂はないということなのだろうか。作者が語っているのはキララについてだけであって、人間自身についてではない。
だが、ひとつの解釈として、そのような見方が成り立つことを暗に示しているのではないか。
 例えば、トール・ノーレットランダーシュの「ユーザー・イリュージョン」という考え方によれば、人間は、脳が動き始めてから、0.5秒後に意識という「ユーザー・イリュージョン」が形成され、その上で意識に基ずく反応が為されるとされる。
 「ユーザー・イリュージョン」について、次のように考えるとわかりやすいだろう。今、私が操作しているパソコンのデスクトップには「ゴミ箱」があるが、これは本物の「ゴミ箱」ではなく、「ユーザー・イリュージョン」である。そこに「ゴミ箱」があるわけではないが、幾つかの機能を束ねて「ゴミ箱」と名づけることで、操作がし易くなる。
 トール・ノーレットランダーシュによると、意識という「ユーザー・イリュージョン」が形成されるのは、現実世界に生きるために我々が「つじつまあわせ」を行っているからであるという。
 「つじつまあわせ」という言葉は、『闇に用いる力学[赤気篇]』にも出てくる重要なキーワードである。私は『闇に用いる力学[赤気篇]』に出てくる「つじつまあわせ」という言葉が、『匣の中の失楽』に出てくる「不連続線」と深いところで繋がっており、さらには人間の意識=魂が「ユーザー・イリュージョン」であるという考えと接点があると考えている。
 つまり、人間の脳の中ではデジタル処理が為されており、まず認識の「不連続線」が発生するが、自己欺瞞の技術としての「つじつまあわせ」によって、意識という「ユーザー・イリュージョン」が成立することで「不連続線」が見えなくなり、隠蔽されるわけである。
(ここで、自己欺瞞の技術ということから、コリン・ウィルソンの新実存主義との接点を考えることも可能だろう。)

 それはさておき、『キララ、探偵す。』には、他にも考えるべきテーマが含まれている。
(1)ここで、キララのキャラクター設定は、男性にとって望まれる女性像である。つまり、客体としての女性像である。(そうであるがゆえに、萌えキャラとしてのメイド・スタイルとなっている。)この設定について、女性はどう思うのか。さらにいえば、フェミニズムとの関連で、どう評価されるのか。
(2)53ページには「いや、実はかくかくしかじか」という表現がみられる。しかし、現実の会話では「かくかくしかじか」という端折った表現は、当然しない。これは、この物語が紙に書かれた虚構であることを前提にした省略法である。これは、作者のメタ・フィクション指向の現われと看做すことができるのではないか。
(3)キララは、日本の最先端テクノロジーとおたく文化の融合から生まれた。作中の登場人物ミス・キャンベルは、日本のおたく文化について、多神教アミニズム文化という観点から評価を与えている。ミス・キャンベルが批判するのは、西欧の一神教文化であり、そのなかにはキリスト教や資本主義も含まれている。そして、西欧の一神教文化へのアンチとしての精神世界至上主義をも、一神教文化のヴァリエーションとして否定する。
 ミス・キャンベルの主張は、日本文化の全面肯定へと繋がるが(彼女の説は、中沢新一の『ポケットの中の野生〜ポケモンと子ども』を連想させる。)、多神教化の路線を現代思想のなかで考え直してみるとどうだろうか。
 一神教に対して、零神教化路線をとったモーリス・プランショ。一神教に対して、反・一神教路線をとったジョルジュ・バタイユ(彼は、過激な叛逆者のポーズを取りながら、叛逆者たるべく逆説的にキリスト教の価値体系を温存したのではなかろうか。その意味で、一神教のヴァリエーションというミス・キャンベルの皮肉は、バタイユに対してこそふさわしい)。そして、最後に一神教に対して、多神教路線をとったピエール・クロソウスキー。ともすれば、予定調和的な美しい国・日本に回帰しがちな多神教肯定論に対して、クロソウスキー路線(あるいはシャルル・フーリエの『愛の新世界』にみられる多型倒錯肯定路線)もあることを強調せねばなない。
(4)キララのモード・チェンジについて。つまり、昼間の意識と夜の意識の差異について。クララの状態の方が、推理力が増すというのは、興味深い。性的なエネルギーが、意識状態を開くということを暗示しているのだろうか。
 なお、昼/夜の対比は、『闇のなかの赤い馬』におけるミッション系スクールの尖塔/『ウロボロスの純正音律』における地下の対比とリンクしている。昼の意識は、サンボリックな秩序が支配する世界であり、夜の意識はカオスに満ちた欲動がうずまくセミオティックな世界である。
 ここに多神教肯定論を導入すれば、多神教的世界こそ、この欲動の渦巻く世界に対して、抑圧の少ない世界ということになる。