批評におけるパラダイムの混在

 一体、何がいいたいのか、私にはわからない。
 なぜ、文化記号論者とポスト構造主義者が、並列に並べられるのか、私にはさっぱりわからない。
 どっちかが上位の価値基準で、もう片一方が下位の価値基準ならばわかる。しかし、並列に、対等の立場で並んでいるのだ。これをどう解せばいいのか。
 どっちかがオールマイティーに、全般的に通用し、片一方が部分的に、ある条件下でのみ適用されるというのならばわかる。しかし、そうではない。互いに両立しない理論を唱える論者の名前が、まったく対等に並んでいる。
 批評文を読んでいると、往々にしてこのような事態に直面する。何を言っているのかと、これはこうなのだと言いたい気持ちと、言っても無駄なことだ、現代は教養自体が崩壊しているのだ、ドストエフスキーの名前を知っているだけでも評価しておくべきだという気持ちが入り混じる。

1.現象学実存主義パラダイム
2.構造主義パラダイム
3.文化記号論パラダイム
4.ポスト構造主義パラダイム

 同じパラダイムであっても、個々の思想家の思想の差異も、当然ある。
 だが、パラダイムが異なると、まず間違いなく、それ以上の思想の開きが出来る。
 これらパラダイムの異なる思想をどう整理をつけるか。
 例えば、私の場合、これらのパラダイムを、以下のように整理している。
 ポスト構造主義パラダイムに属するドゥルーズ=ガタリの理論は、資本主義の動的な仕組みをも射程に収める理論を提出している。ドゥルーズ=ガタリは、社会モデルの理念型を提示し、コード化・超コード化・脱コード化ということを言っている。ところで、コード化社会、すなわち動的な変化の少ない未開社会に対しては、構造主義パラダイムに属するレヴィ=ストロースの構造人類学でカバーできる。レヴィ=ストロースは熱力学の比喩を使って、未開社会を冷たい社会と名づけ、構造分析を展開した。だが、超コード化社会、すなわち専制君主社会の分析に、構造分析が役立つかといえば、無理がある。専制君主社会での王殺しや祝祭に関しては、文化記号論パラダイムに属する山口昌男の「中心−周縁」理論の方が適している。が、これもまた万能ではなく、システムの解体をシステム化した資本主義の分析には、ドゥルーズ=ガタリのスキゾ・アナリーズの方が適している。つまり、下位のパラダイム(上の1〜4では、数字の小さいもの)に属する学問的成果は、ある限定条件のもとでは有効であるが、上位のパラダイムのようには適用できる範囲が広くないと考えるのである。
 だが、パラダイム違いの思想家を並置して書く批評家は、こうしたどちらのパラダイムを優先させるかとか、適用範囲の限定を行うかといった事柄には、まったく関心を持たないのだろう。そういう批評家の読んできた評論自体が、パラダイムの混線現象が起きていることが多い。二流の思想家のテクストばかり読むと、三流の思想家が生まれることになる。
 
 問題は、言っていることが、まったくわけのわからないものになることである。
 文化記号論では、内部/外部といった二項対立を基に、理論展開をすることが多い。これに対し、ポスト構造主義パラダイムでは、内部/外部といった二項対立の外部に出ることを教える。つまり、外部/(内部/外部)ということになる。ポスト構造主義では、外部/(内部/外部)の最初の外部の方に力点が置かれている。
 ところが、パラダイムを混線させる論者は、ポスト構造主義の外部/(内部/外部)を、単純な内部/外部に置き換えてしまう。このほうが、物語として判り易いからである。
 こうして、山口昌男ジャック・デリダ、あるいは柄谷行人が並置されるといった喜悲劇が起きる。(別に山口昌男が悪いという意味ではなく、適材適所があるといっているだけである。)
 
 さらにテクスト全体を読まず、一部分だけを抽出して、著者の言いたいことを捕捉することに成功したとして、それを基に論ずる批評家も存在する。
 この手法でも、最初から最後まで一貫して、同じ事を言い続けるテクストの場合、何の支障も起きないかも知れない。
 だが、例えば浅田彰の『構造と力』のように、さまざまなパラダイムを取り上げては、それを斬り、より有効なパラダイムを目指すような本の場合、途中の一箇所だけを抽出すると、奇妙なことが起きてしまう。
 これは、「BBSアレクセイの花園」http://8010.teacup.com/aleksey/bbsで起きた事だが、1月21日(日)15時30分3秒のホランド氏の書き込みで、

>> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。               「構造と力」(勁草書房P134)
> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例である。この場合、浅田批判をするのであれば、浅田説の表現されたところをピックアップして、やり直さないといけないことになる。
 上記は、まだ些細な事柄であるが、ただでさえ、小難しい現代思想の世界において、さらにわかったようなわからないようなことを言う魍魎が跋扈するという状況は宜しくない。また、文学を隠れ蓑に、曖昧なイメージ思考に終始するものもある。素人の私にもわかるようなクリアな議論をしている批評を読みたいのですが、なかなかそうはいかないようである。