齟齬の根底にあるもの

 アレクセイさんには、いままで恩義がありますので、私の文章で、不快な思いをさせたとすれば、大変申し訳なく思います。
 ただ、アレクセイさんの私に対する理解には、相当な誤解があるように思います。
 私はアレクセイさんの反権力的で、一匹狼的なスタイルが好もしいものに思えましたので、アレクセイさんのスタイルを模倣しようとしました。
 それと同時に、アレクセイさんの単なる追随者、あるいは家来になりたくなかったので、アレクセイさんの行動と発言に隙がないか、常に注視するようになりました。真にアレクセイさんのようになるためには、アレクセイさんに従うようではだめで、アレクセイさんを超えなければならないと考えました。
 アレクセイさんには、想像もできないでしょうが、そういう人間もいるのだということをご理解いただきたいと思います。そうであるがゆえに、私はアレクセイさんに近づき、アレクセイさんを模倣し、アレクセイさんを超えるべく、アレクセイさんの隙を探ろうとしたのです。
 アレクセイさんの標榜する「笠井潔葬送派」については、その反権力性、一匹狼性において、共感するものがありました。
 ひとつ、質問をしたいのですが、アレクセイさんは論考を書かれた際に、さまざまな場所でそれを紹介し、「ご笑読」くださいということを書かれるのですが、アレクセイさんは、本当にご自身の書かれたものが、笑って読めるものだとお考えなのでしょうか。
 正直、プラックユーモアを解さないためか、私はアレクセイさんの論考を笑って読めたことは、これまで一度もありませんでした。
 アレクセイさんは、アレクセイさんの論考を笑って読むことのできない、読むときに顔がひきつってしまう人のことを、批評に私情を入れる人、あるいは笠井派=探偵小説研究会派に共感しているものと看做し、敵側に算入するのではないでしょうか。
 アレクセイさんの書かれたものを大笑いして読める人が、アレクセイさんにとって、いい読者であるのならば、私は過去に遡っても、いい読者であったことはなかったといえます。
 思うに、アレクセイさんは、憎しみの感情から文章を書かれているのではないかと思います。この憎しみは、愛情の反転したものであると思いますが、スタート地点が憎悪であるがゆえに、その結論が冷笑であり、侮蔑であるということになるのだと思います。
 しかしながら、憎しみの感情は、その対象にピンを突き刺す代わりに、その対象によって自身のこころを不自由に拘束するのではないかと思います。私は、このような不自由さが嫌なのです。
 大筋の方向性では共感しつつも、このように私はどうしても解けない違和感を常にかかえていました。このような私を、アレクセイさんは論理の不徹底だと笑うのでしょうか、それとも偽善の上塗りだと断定するのでしょうか。
 アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。
 はっきり言いましょう。アレクセイさんの批評のスタンツは、反権力的である限りにおいて、大筋において賛同しますが、その批評は、ルサンチマンから出発しており、人間を猜疑心で見つめ、自分にとって敵か味方かの二項対立で分類し、少しでも疑いのあるものは敵のレッテルを貼り、完全に叩き潰すまで、憎悪の言葉を連打するということです。つまり、アレクセイさんは反権力を標榜しつつ、権力と同じやり方で、人間を追い詰め攻めるという手法をとっていらっしゃいます。
 アレクセイさんがこれまで私にいろいろとよくしてくださったことには感謝しますが、私はアレクセイさんのこういう手法にはついていけないものを感じます。今回の齟齬の根底に、こういった考えの食い違いがあるのだと考えます。残念ながら、私はアレクセイ派ではありません。納得いかない部分があるということです。