後続の走者 II

アレクセイさま

 おっしゃる通り、私はアレクセイさまの書かれた竹本健治著『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを、『キララ、探偵す。』刊行前に読んでおります。
 アレクセイさまの書かれた『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューには、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のメタ・フィクション的傾向を示す部分の指摘があり、これを読むことにより、読まないよりも、同じ著者の別の作品についてのメタ・フィクション的傾向についても、気づくようになると思います。
 また、竹本健治氏のメタ・フィクション的傾向を指摘した評論は、アレクセイさまのレビュー以前にも、前述の笠井氏・日下氏などがあり、これらを読むことにより、やはりメタ・フィクション的傾向に敏感になります。
 私の場合、笠井氏・日下氏・アレクセイ氏らの評論を読んでいますから、新作の『キララ、探偵す。』を読んで、そのメタ・フィクション的傾向に気づいたとしても、当たり前のことで、決して凄い事ではありません。
 ことさら、過剰に騒ぎ立てるような事をいたしまして、誠に申し訳なく思っております。

 ただ、依然として釈然としない事があります。
 確かに、アレクセイさまの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを読むと、竹本作品のメタ・フィクション性に敏感になりますが、レビューが書かれた時点で未刊行であった『キララ、探偵す。』のことは、当然書かれていません。
 従って、『キララ、探偵す。』について同様のことを言うためには、やはりそれなりの作業をせねばなりません。確かに、まったく土台のないところから行うよりは、遥かに安易であり、先行者の業績と比較すると、その価値は遥かに劣るわけですが、それでも零ではないというのが私の考えです。
 心証の悪い私については、価値は零ということでかまいませんが、私のことで前例を作ったがために、その後、私以外の人が今後刊行される竹本作品のメタ・フィクション性の指摘をして、「『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを見ましたね」という非難を受けたとしたら、あまりにも理不尽と思われます。
 「お前の危惧は妄想で、そんなことはない。失礼な言いがかりだ。」と言われれば、私はこの件に関して安心して退場することができます。

 なお、『構造と力』の引用部分は、浅田彰の自説ではなく、メルロ=ポンティの説の浅田彰による要約であり、「アレクセイの花園」におけるホランド氏の浅田彰氏の批判は的外れという批判を先日いたしましたが、ホランド氏とkamui氏の対話という元の文脈では、kamui氏が自説をうまくいい現したものとして、『構造と力』を引用しており、ホランド氏は、kamui氏の自説を批判するために、この部分を攻撃しているということがわかりました。したがって、的外れなのは、元の文脈に即して考えなかった私のほうであり、ホランド氏の方ではありません。
 大変な錯誤があったことに深く陳謝いたします。