ある転落の記録

(1)砂上の楼閣
[事実確認1]
アレクセイ氏との意見対立は、「討論・笠井潔について」
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html の頃からありました。
「虚無なる「匣の中の匣」」という掲示板には、2004/10/29に書かれた「討論・笠井潔について」http://www5.rocketbbs.com/151/bbs.cgi?id=yurufra2&page=4 という文章があり、そこには当時感じた意見のズレが書き残されています。
併せて、その下にある「思想の適用範囲について」http://www5.rocketbbs.com/151/bbs.cgi?id=yurufra2&page=4 という文章を読んでいただければ、今回書いた「批評におけるパラダイムの混合」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648 という文章が、内容面で重複しているところが多々あるということがわかります。
「討論・笠井潔について」http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html をやっていた当時、「思想の適用範囲について」で書いたような枠組みに流し込めば、笠井潔の思想を克服することができると考えていました。
「虚無なる「匣の中の匣」」に書いたこのふたつの文章が、今回、表面化した。「虚無なる「匣の中の匣」」は、誰でも見れる場所なので、その段階で表面化させたといえますが、見る人が少なかったのだと思います。

[現在の観点からの批判]
「思想の適用範囲について」や「批評におけるパラダイムの混合」の枠組みに流し込んだとしても、同じ現代思想言語ゲームを共有している人ならば兎も角、共有していない人には全く無効で、説得力がなく、ただ思想家の名前やテクニカル・タームを振りかざすだけで、(それがいかに反権力の側に立つ文化的ヒーローであっても)権威主義的な印象を与え、反感を買うだけであるということが判りました。
現代思想は、まったくローカルな、同じ関心を共有する人だけに通じる符牒で出来ており、こんなもので誰でも斬れると考えていた私が愚かであり、傲慢であったと思います。

[事実確認2]
 ミクシィにおいて、私のマイ・ミクシィは、ありえない組み合わせであることが、すぐさまわかります。
 私とアレクセイ氏の間で、共通点もあれば、相違点もあることは上述の確認でわかります。
 さらに、アレクセイ氏は「笠井潔葬送派」で、反探偵小説研究会の立場であり、小森健太朗氏は探偵小説研究会に属している。アレクセイ氏が、清涼院流水氏の小説をあまり評価していないということも知っていました。
 また、他にも「合理主義VS精神世界」などの対立軸を見出すことができます。
 同じタイプの人間ばかりであれば対立は起きにくいといえます。それに対し、私の周りは何が起きても不思議ではない人間関係といえます。
 うまく機能すれば、本当の意味でのコミュニケーション=意見交換の場が出来たかも知れませんが、それを実現するだけの器が私にはなかったといえます。
 ちなみに、小森コミュをつくるにあたって、まず小森健太朗氏をミクシィに招くということを行いましたが、このとき自分でしなかったのは、小森氏と直接マイ・ミクシィになることで、複雑な人間関係になるので、自分からは遠慮したいという気持ちがあったのは事実です。ちなみに、現在、マイ・ミクシィとなっているのは、小森氏からの申し出によるもので、ミクシィに入会されてから時間を経てからでしたから、すべてを承知されているものとして快諾することにいたしました。

(2)出来事の経緯
 笠井潔著『魔』(文春文庫)の解説を、小森氏が書いたということで、アレクセイ氏が私の日記に、否定的な批評を書きました。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648 この批評は、アレクセイ氏の立場からすると、当然のものであったといえます。
 この書き込みに対し、配慮が働いたのは事実です。争いは起こしたくないが、されど議論は無視はできない。両者の間をうまくくぐりぬけられないか、と。
 その後、私はアレクセイ氏の批評に関してコメントをし(アレクセイ氏の立場からは中途半端ととられるかもしれませんが)、一応はくぐりぬけたつもりだったので、『魔』の件で、立場的に追い詰められたから、その後の暴発的な書き込みを行ったかというと、その理由は弱いというのが事実です。
 ちなみに、この機会ですから、私が小森文学についてどう考えているか、少しだけコメントしておきましょう。『グルジェフの残影』の文庫版が出たときに、巻末の対談でニーチェとか、コリン・ウィルソンとかを題材にした場合、ミステリを喰ってしまうので、そういうテーマを避けるという主旨のことを小森氏が語っており、その直後、小森氏自身に自分としては、ニーチェとか、コリン・ウィルソンとか、小森さんが本当に書きたいものを書いてほしいし、そういう内発的な理由で膨れ上がって、ミステリという形式が壊れるときに、むしろ問題作が生まれるんじゃないでしょうか、という主旨のことを言ったことがあります。小森氏の評論をみますと、必ずといっていいほど笠井説への言及がありますが、このまま行くと笠井説を補完するだけになってしまいますから、もっと独自性を出してもらいたい、とすればニーチェとか、コリン・ウィルソンとか、本当に小森氏の好きなものを題材にして、多少優等生の枠をはみ出てもよいというような気概で書くのがいいのではないか、と思っています。(これは勝手な希望なので、小森氏がどう考えられるかはわかりませんが。)
 話を元に戻します。『魔』のことを書く前から、ふたつの事柄に悩まされていました。
 ひとつは、清涼院流水氏と西尾維新氏との対談 http://www.amazon.co.jp/gp/feature.html/ref=amb_link_22568806_2/249-2495434-4041908?ie=UTF8&docId=1000029266 の末尾の方に出てくる「笠井潔」という名前が、ふたりの間でどう位置づけられるかという問題。(これをどう考えるかは、未だによく判断がつきません。)
 もうひとつは、「BBS アレクセイの花園」での私の文章の一部引用。引用については、最初の引用の際に、アレクセイ氏から許可を求めるメッセージがあり、文章は読まれてなんぼの世界なので、その文章は引用してもいいですよ、という回答をしたつもりだったのですが、その後も引用が続き、全文引用とは違い、一部引用だと印象が違うなぁ、これでは引用がアレクセイ氏の引き立て役になっているなぁ、でも仕方ないかと思っていました。
 暴発の引き金となったのは、
「アレクセイの花園」2月11日(日)01時01分22秒に書かれた

>Keenさまやはらぴょんさまが指摘なさっているような、「意識とは何か」「生命とは何か」「恋愛とは何か(可能か)」といった哲学的な問題提示を別にしても、本書には『匣の中の失楽』以来、連綿と続いている、竹本健治ならではの「過剰性」「逸脱性」が見て取れます。
例えば、
 『「どうしたんだよ、そんな顔して」
  (…)
  「いや、実はかくかくしかじか」』(P53)
という『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』でも使われた、「メタ・フィクション」的手法。

という文章で、2007年02月01日 00:16に私が書いた『キララ、探偵す。』のレビューを、アレクセイ氏は見ているにも関わらず、それをないかのように故意に事実を隠蔽したのだと思ったのです。
 私はアレクセイ氏の『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを先に見ていますから、アレクセイ氏が『キララ、探偵す。』を読めば、「メタ・フィクション」的手法に気づくことは確信していましたが、自分の名誉を引き立てるために、私のレビューはないことにしようと図ったと思ったのです。(無論、私のレビューは、アレクセイ氏や他の人によるこれまでの竹本作品の書評を読んでのことですから、オリジナリティは無に等しいと思っていました。)
 そのため、この部分に日記で触れたのですが、アレクセイ氏は、この件について私を黙らせようとする雰囲気が見られましたので、ますます疑惑を深めてしまったのです。
 さしたる準備も詳細な事実確認もないままに、旧来の自論に、その場のトピックス(『構造と力』の件)を散りばめて、アレクセイ氏批判を開始したのは、それが第一原因でした。
 しかしながら、旧来の現代思想を適用した自論は、現代思想の心棒者にしか効かず、『構造と力』の件も、その場の会話では文章が話者の意見の表象代理として機能しており、『構造と力』の著者が言いたかったこととは別に流れていることが判明した現在、この暴発の第一原因についても、認識の修正を図らねばなりません。
 アレクセイ氏が私を黙らせようとしたのは、事実の隠蔽のためでも、権威主義傾向でもなくて、私の主張がまったく見当ハズレで、迷惑だったからであると。そして、2月11日(日)01時01分22秒より前に、2007年02月01日 00:16に私が書いたレビューを見たというのは、大きな誤解であったのだと。そうでなかったら、あんなに自信をもった私への反論ができないはずです。
 かつて、アレクセイ氏は「はらぴょんさんは確かにおたくだけれども、ともだちだと思っているよ。」という主旨のことを書かれたのを覚えています。それなのに、私は早とちりを連発して、アレクセイ氏を疑い、アレクセイ氏を傷つけてしまいました。今はただ、平謝りに陳謝するしかありません。
 なぜ、アレクセイ氏を信じることができなかったのか。今の私には、それが恥しくてなりません。