『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズム』

dzogchen2007-03-30

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=16741227&comment_count=3&comm_id=446658
からの再録です。

シンポジウム

ここでは、次のようなテーマで議論を深めてゆく場としたいと考えています。
・ゾクチェン、あるいはニンマ派について
チベット密教について
・仏教、さらには宗教全般について
中沢新一氏について
・その他、真摯な問題であれば可とします。

なお、荒らしを目的とする書き込み、個人への誹謗・中傷に終始する書き込み、マルチポストに該当する書き込み、その他mixi規約違反に該当する書き込みは、管理人の判断で、記事を予告なしに削除する場合があります。予め、ご承知おき願います。

このような場を設けさせていただいたのは、島田裕巳氏が『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズム』(亜紀書房)を刊行するとのことで、このコミュニティとしても宗教的テロリズムの問題を避けて通れないと考えたからです。

中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズム』の情報は、以下の通り。
http://blog.livedoor.jp/shhiro/
http://www.akishobo.com/new/books/new_114.html
目次
中沢氏の変節−はじめに
第1章 一番弟子の困惑
第2章 サリン事件の本当の意味
第3章 『虹の階梯』の影響と問題点
第4章 コミュニストの子供として
第5章 テロを正当化する思想
第6章 宗教学者としての責任

現物を入手しておりませんので、以下は推測ですが、「一番弟子」というのは、元オウム真理教の出家信者・高橋英利氏のような気がします。
雑誌『宝島30(1996.2)』で、高橋氏は、中沢氏に「ね、高橋君。(犠牲者が)一万人とか、二万人の規模だったら、別の意味合いがあったのにね……」と云われて、コメントに窮したと発言しています。
この中沢発言が事実を正しく伝えているかという問題もありますが、これはメタフィジカルかつトランセンデンタルに考えられた仮設で、つきつめて物事を考えようとしての発言であり、同類と信用しての内輪の話だったのではないかと推測します。
が、この仮説では、殺される側の心情、痛みや苦悩の問題が組み込まれていないという最大の問題があります。
大乗という点からすれば、慈悲という名の愛、そして仏の前での平等ということは大変重要あり、犠牲者側の心情をも組み込んで考える必要があるように思われます。

なお、中沢氏はオウム問題について中沢版『邪宗門』にあたる『とびきりの黄昏』を『へるめす』で連載していましたが、『へるめす』終刊にともない、中断したままです。連載内容からすると、宗教のもつ両義性に照明をあてようとする試みのように思われましたが。
この中沢版『邪宗門』を、やはり中沢氏は書き上げるべきであると私は考えます。

中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズム』に関しては、有田芳生氏が、以下のような記事をブログ「有田芳生の『酔醒め漫録』」に書いています。

中沢新一はオウムの「黒幕」か
http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2007/03/post_2965.html
地下鉄サリン事件中沢新一
http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2007/03/post_a316.html
地下鉄サリン事件中沢新一(2)
http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2007/03/post_c89d.html

中沢新一はオウムの「黒幕」か」という記事に拠りますと、オウム真理教(現アーレフ)から分裂した上祐史浩氏のサイトでも、この本を取り上げています。

・島田氏の中沢氏批判について
http://www.joyus.jp/diary/10/0009.html

なお、上祐史浩氏は、mixi内に実名登録されており、新団体の設立準備を進めていることが判りましたので、管理人としての判断で、現在、このコミュニティに参加できないようにブロックをかけています。(異議のある方は、お申し出ください。)

私の考えは、以下の通りです。
(『虹の階梯』について)
新しいテクノロジーが開発されると、その効果に「光」の部分と、「闇」の部分が生まれる。
『虹の階梯』もまた、精神的な世界のなかで道を探求しようする人にとって、革命的ともいえる書物であったが、そうであるがゆえに「光」の部分と「闇」の部分を生み出した。
「闇」の部分は、『虹の階梯』に出てくる「ポア」という言葉を、死者の魂をより良い状態に転移させるという本来の意味から、チベット語で「ドゥルワ」とか「ドゥルタル」にあたる「殺人」に意味を恣意的に改竄し、さらにはグルイズムの絶対帰依の部分だけを拡大解釈し、集団のなかでの全体主義的支配を正当化するためのロジックに転用した。
そのなかで、捨て去られたものは、仏教を学ぶことの意味が、衆生を苦の世界から救済したいという気持ちからなされなければならないというはじまりの動機であった。
(有田氏らによる中沢氏批判について)
批判は、重要なものとして受け止めなければならず、その上で、チベット密教の探求を続けるものは、自身の思想・信条とオウムのような宗教的テロリズムとの間の切断線を見出さなければならない。どこどこが違うから、オウムは過ちを犯したのだと断言できるまでにならないといけない。
このような理論構築をする上で最も適した人物は、中沢氏であり、彼はオウム事件後のバッシングを通じて、そのようなことを成し遂げる絶好の哲学上のチャンスを与えられたが、中沢版『邪宗門』が発表されていない現在、未だ成し遂げられていないとみるべきである。
となれば、この作業は中沢読者たるわれわれが行うしかない。
オウムの出家信者たちは、「日常」から脱出して、教団に向かった。その人たちに、有田氏らは「日常」への帰還を訴える。
しかしながら、「日常」になんらかの問題があるから、それが嫌で出て行った人たちではなかったか。
「日常」の問題とは、家族の問題であったり、社会的・経済的閉塞感であったり、科学万能神話の世界への違和の問題であったり、またある人には違う問題が横たわっているかも知れない。
となれば、帰還先としてそういった問題の多い「日常」ではない、別な心ある正しい道(受け皿)が提示されてしかるべきではないか。