『異邦人』について

以下は、ソーシャル・ネットワーキングサイト[mixi(ミクシィ)]に書いた原稿からの転載。
・コナー・クルーズ・オブライエン著・富士川義之訳『現代の思想家カミュ』(新潮社・絶版)は、ムルソーが、アラブ人を殺害したのは、アルジェリアのフランス人としてのカミュのアラブ人への偏見が入っているのではないかということを指摘している。カミュに好意的な私にとっては、手厳しい指摘だが、完全に否定することは難しいように思われる。
アルジェリア戦争当時、サルトルフランシス・ジャンソンゴダールの『中国女』を見よ。あるいは『革命か反抗か』を。)が、この戦争に明確に反対の意思表明をしたのに対し、カミュは休戦と話し合いのアピールをするに留まったのは、アルジェリアに彼の母がいて、反戦の意思表明によって危機に晒されるのを恐れたからだと言われている。(事実、良心的兵役拒否者の逃亡などに関与したジャンソン機関に支持表明をしたサルトルは、アバルトマンにプラスチック爆弾を投げ込まれたりしている。)カミュの父は、第二次世界大戦のマルヌの戦いで死んでおり、カミュアルジェリアの貧困の中で育ったという経歴を持つ。
・「今日ママンが死んだ。」というママンという言葉は、甘いお菓子のような語感だと、確か倉橋由美子がエッセイの中で書いていた。母子関係の密度を予感させる言葉である。
コリン・ウィルソンは、『異邦人』に関して、ムルソーは認識の倦怠に陥っているという。ムルソーの周りに対する無関心や無感動、物事をどうでもいいと考える態度は、ニヒリズムに侵食された不健全な精神状態のせいだというのだ。コリン・ウィルソンは、周りに嘔吐感を覚えるサルトルの小説の主人公ロカンタンとともに、これらを悲観主義実存主義として批判し、楽観的な進化のヴィジョンを持つ新実存主義への道を拓こうとする。(コリン・ウィルソンは、最終的に神父と対峙し、キリスト教への不信をぶつける段階になって、ムルソーの現実感が戻り、焦点が合ったとする。)
ムルソーが撃ったものは、正確にいえば太陽である。ぎらつく太陽がムルソーを支配しようとするとき、彼はそれを動物的ともいえる身のこなし方で逃れようとする。この太陽は、アルジェにおいては神の如き支配者ではなかったか。
カミュは、『異邦人』を個人的美徳(神を崇めるキリスト教)への不信を表明するものであると、手帖に書いている。前半における太陽の殺害と、後半における神父による救いの拒絶は、対応している。
・ちなみに、『ペスト』や『反抗的人間』は、集団的美徳(歴史を神格化し、革命の名のもとに殺人を正当化するマルクス主義)への不信を示しているとカミュは手帖に書いている。
・個人と集団に渡る二重の美徳への不信を表明するカミュの精神の裏面には、[美徳の不幸]が隠されているように思う。
カミュは、ムルソーを薄情ではなく、厚情だとしている。個人的美徳への不信を表明したムルソーは、われわれにとって現代の救い主(キリスト)だというのだ。このことは、『異邦人』の制作意図を示している。