竹本健治著 「クー」連作を解読する

※以下はミクシィに発表した原稿の再録です。
竹本健治の作品は、狂気を主題とするものが多い。
まず、デビュー作『匣の中の失楽』の段階で、竹本健治は、個の狂気を描いている。たとえば、「尖ったものを上向きにして、そこにビー玉やらピンポン玉を乗せようとする」といったふうに。これらのシーンと埴谷雄高の『死霊』の通底音は、ともに超越的なものへの不条理な願望を描いているという点にある。
さらに竹本健治は、後に「狂気三部作」と呼ばれるようになる『将棋殺人事件』『トランプ殺人事件』『狂い壁 狂い窓』を発表する。これらも、個の狂気を主題にした作品といえるだろう。
ところが、『闇に用いる力学[赤気篇]』や「クー」連作では、集団的な狂気に関心が向いている。「クー」連作とは、『クー』、『鏡面のクー』、そして未刊の『黙示のクー』から成る三部作である。これらの作品では、リアリズムの約束事が取り払われ、大胆なSF的設定が導入されたおかげで、竹本健治の考える世界の見取り図がよく見えるようになっている。
『闇に用いる力学[赤気篇]』や「クー」連作では、権力の問題が取り上げられる。これらの作品で、竹本が描く宗教的な権力装置(「クー」連作では「救世の科学」)は、この世界のなかに超越的な奇蹟を現出する先端テクノロジーを独占し、テクノロジーの部分はシークレットにして、人間の前に超越的な神秘として提示する。これは、進化の袋小路に至った人類の閉塞状況を打破する支配的エリートのミュータント幻想としても捉えられるが、それ以上に奇蹟の独占による権力の行使という意味合いが強いのである。宗教的権力装置は、人間の精神に侵食し、その内部を隅々まで蹂躙し支配しようとするのである。
ことにSFバイオレスク・ロマンである「クー」連作において、この権力関係は、性的な<支配−被支配>の関係において捉え直される。ヒロイン、クーをとりまく世界は、死と暴力が支配する世界であり、「救世の科学」のみならず、警察組織を表象代理する主任捜査官のバグジー・ラウにせよ、遊び人のビルにせよ、男性至上主義で、エゴイスティックで、自分の支配欲を満たすために性行為を行うのである。読者はクーの視点から世界を見ることで、この世界の仕組みが見えてくるようになっている。いささか挑発的な言い方をすれば、この小説を構造主義フェミニズムの方向性で読むことも可能である。
講談社ノベルス版の「著者のことば」には、次のように書かれている。
「美しい少女は、たぶん、その美しさによって、既に凌辱された存在なのだろう。世界がそのようなシステムに組みあがっているとすれば、少女は自分自身の弔い合戦をはじめなければならないはずだ。だけどそれは果てしない、過酷な、出口のない戦いになるだろう。だから、この物語の主人公であるクーに、僕は祈ってやることしかできない。」
この「著者のことば」は、少し改変されて、シブキのことばとして『鏡面のクー』のなかに再度採用される。二度にわたってこのことばが採用されたのは、ここに「クー」の核となるイデーが組み込まれているからと考えるのだ妥当だろう。
ポイントはふたつ。美少女を導入したのは、単なる作者の趣味ではなく、世界を統べる権力システムの悪を析出する文学機械であるということ。もうひとつ、われわれはこの主人公の側に立って、世界との総力戦を生きなければならないということである。
前作『クー』は、主人公クーは謎の組織に付け狙われるというところから始まっていた。彼女の父親は、クーを私設戦闘訓練所に入れ、コンパウンドなどの護身術を徹底的に仕込ませようとした。まるで今日の事態を推測するかのように……。
『クー』はミステリの要素を兼ね備えたSFであり、<私>探しゲームと、謎の解明がひとつになった構成をしていた。物語の進行とともに、父親の正体や謎の組織の目的が明らかになるが、それとともに警察の知るところとなり、政府軍も動き出す。こうして、世界のすべてが敵となってゆく。
『鏡面のクー』は、シブキという青年の視点から描かれる。『クー』から五年後の世界である。思想団体「救世の科学」は、陰謀をめぐらせ、社会の底辺に至るまで支配の網の目を張り巡らせようとしていた。クーが登場するのは、後半である。クーの置かれた状況は、前作以上に過酷になっている。クーは、大脳加工を施され、廃人同様の位置にまで追い込まれている。人格は崩壊し、記憶も不確かなものになっている。
表題には<鏡面>とあるが、物語中には鏡は登場しない。この解釈を巡っては、『クー』を『不思議の国のアリス』に、『鏡面のクー』を『鏡の国のアリス』に対応しているとする説がある。しかし、物語中にルイス・キャロルもアリスも登場しないため、このような当て嵌めは保留したほうがいい。私が行うのは、テクストそのものを読むに尽きる。ここで、直面するのは人格の境界すら蝕まれ、主体を確保できなくなったクーであり、クーのクローンである生き写しに対峙するクーである。
果たして、主体を確保できなくなるとはどういうことなのか。それを思考するためには、クーがクーと名づけられる前に遡行する必要がある。プレノン・クー。
(ジャン=リュック・ゴダールの作品で「カルメンという名の女」と訳されている映画がある。原題は「プレノン・カルメン」で、カルメン(Carmen)という名前(nom)の前(Pre)という意味がある。)
人間主体の形成という点で思い浮かぶのが、ジャック・ラカン鏡像段階(stade du miroir)の概念である。『エクリ I』(弘文堂)に収録された「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」(宮本忠雄訳)を参照しながら、クーの陥った状態を考えてみよう。
鏡像段階理論について、ラカンは「われわれを<コギト>から直接由来するすべての哲学に対立させるもの」といっている。というのは、それはいかに<コギト>が形成されるかを解明するものだからである。この現象は「生後六ヶ月以降」から「生後一八ヶ月ぐらいまで」に見られるもので、幼児が「鏡の前で自分の姿をそれと認知する」ことであり、同一化のひとつ(une identification)として理解されねばならないというのである。つまり、主体は、このような鏡像段階の過程を経て形成されるものであり、初めからあるのではないというのが、ラカンの考えの基本である。
竹本健治は、『クー』において自我の崩壊によって露呈された<コギト>以前のイドの世界を描写している。(講談社ノベルス版115頁以降、ハルキ文庫版161頁以降を参照せよ。)
「何かが凝縮し、何かが孵化し、何かが変質し、何かが置換し、何かが脱皮し、何かが沈殿し、何かが発火し……(後略)」がそれである。この瞬間、社会生活を営むために身に着けていた<コギト>の拘束が外れ、マグマのような潜在意識が露呈し、クーは日常世界を改変してしまうほどの力能を開放するのである。
このような<コギト>以前のイドの世界は、続編である『鏡面のクー』でも描かれる。そこでは<コギト>の拘束がなくなり、クーの意識と他者(シブキやクーのクローン)の意識が相互浸透し始めるのである。どうやら、この潜在意識は、トランスパーソナルな集合的無意識の性格を持たされているようである。
<コギト>以前の欲動の世界について、竹本健治は前衛的とも実験的とも言える表現形式を取ることが多い。「クー」連作以外にも、『腐蝕(旧題:腐蝕の惑星)』や『クレシェンド』などでも、竹本健治は、こういった表現の実験に取り組んでいるのである。タイポグラフィーの応用によるビジュアルも含めた総合表現という点では、『カリグラム』のギョーム・アポリネールの例があるが、竹本健治の志向はジェームス・ジョイスが『フィネガンズ・ウェイク』で試みたような人間の潜在意識の表現に向かっているようだ。
クーの潜在意識の下には、クーの身体性があり、その基調を為すものは生命力と結びついた官能の享受である。このクーの特徴は、彼女の並外れたサバイバル能力に繋がっており、軽視すべきではない。
そして、クーの潜在意識(id、es)は、ジュリア・クリステヴァならば、セミオティックと呼びそうな革命的な性質を持たされている。この欲動は、普段は社会生活に適合するように巧妙に隠蔽されているが、ひとたび噴出すると、国家装置や様々な権力装置が維持しようとしているサンポリックな秩序の根底を覆す危険性すら孕んでいるのである。
竹本健治によって描かれた潜在意識の世界は、高度情報集積体として描かれている。これは「パーミリオンのネコ」シリーズに登場するシンクロナイズド・スイミングを行う情報のプールと同様である。
(このような情報のプールをジェノ−テクストとして、そして世界をフェノ−テクストと見立て、ジェノ−テクストの側からフェノ−テクストを改変するという構図を描くことも可能であるが、「クー」連作は現実性の強い物語であり、その間ににマテリアルの問題が入ってくる。つまり、無媒介な改変ができない設定となっている。)
そして、革命の起爆点になるかもしれないセミオティックな力は、多義的な意味を持つ詩的言語の奔流として描かれている。現実の戦いの根拠に、このようなセミオティックな力がないならば、それは偽善的なものであり、根底的な強さがないということになる。
この潜在意識の上に、自我(ego)がある。この自我は、セミオティックな欲動の志向する快楽原則と、国家装置や様々な権力装置が個人に要求する現実原則の妥協線として輪郭が形成されている。
この自我(ego)のさらに上には、超自我(super ego)があり、サンボリックな秩序とリンクしている。サンボリックな秩序は、被支配下に置かれた人間に、一義的な指令を与え、生き方を規定する性格がある。
「救世の科学」という思想団体は、旧来の神を殺害し、新しい神を打ちたてようとしている。この新しい神とは、最先端テクノロジーが現出する奇蹟であり、その秘密を秘匿することで、新しいサンボリックな秩序を形成し、とどのつまりは人間を飼いならそうとするのである。
「救世の科学」の考えるサンボリックな秩序も、彼らが否定しようとしている旧来のサンボリックな秩序も、男性至上主義的な権力思想に基づくものであり、クーの女性状無意識と鋭く対立することは言うまでもない。
『鏡面のクー』は、自我崩壊に陥り、停滞状況に陥ったクーが、「救世の科学」の側に立つクーのクローンと直面するところで終わっている。クーのクローンのまなざしは、まさに他者のまなざしである。これは鏡の代用品に成り得るものである。白い光線と黒い光線の闘争は、クーが再び覚醒したことを意味する。
クーをとりまく状況は、絶望的であるが、クーの状況が人間の置かれた状況を突き詰めた結論であるならば、絶望的であるとはいえ、戦いを終了させることはできないだろう。