『改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』について

ミクシィのレビューからの再録です。]
中沢新一単独の著作としては、『森のパロック』(1992)あたりが代表的な作品となるのだろうが、単独という条件を外せば、『改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』が最良の仕事であると思う。
『虹の階梯』は、チベット密教ニンマ派のラマ・ケツン・サンポ・リンポチェから口頭で学んだ教えを、弟子の中沢新一が書き留めた記録である。
単行本は平河出版社から刊行されていたが、中公文庫に収められるに際し、ロンチェンパの『三十の心からなる戒め』が収録され、本文についても大幅な加筆が行われ、単行本の2倍近くのボリュームとなっているため、中公文庫版を読まれることをお勧めする。(加筆箇所は、主としてこの口頭伝授のベースとなっている『クンサン・ラマの教え』のエピソードを増やし、復元したことにある。)

チベット密教には、次のような流派がある。
ボン教
チベットの土着的でシャーマニックな宗教
ニンマ派(古派)】
・8〜9世紀頃に翻訳された密教経典に依拠する。
・ガラップ・ドルジェ、マンジュシュリミトラ、パドマサンバヴァら。
・ゾクチェン(大いなる完成の意味)の教えは、ボン教ニンマ派において継承されてきた。
・『バルド・トゥドル(チベット死者の書)』は「バルド(中有)の状態において、耳で聴いて解脱する」という意味を持つニンマ派の経典。
・参考文献。川崎信定訳『原典訳 チベット死者の書』(ちくま学芸文庫)、おおえまさのり訳『新訂 チベット死者の書』(講談社+α文庫)、中沢新一『三万年の死の教え―チベット死者の書]の世界―』、ラマ・ケツン・サンポ(中沢新一編訳)『知恵の遥かな頂』(角川書店)、ナムカイ・ノルブ(永沢哲訳)『虹と水晶―チベット密教の瞑想修行』(法蔵館)、ナムカイ・ノルブ(永沢哲訳)『ゾクチェンの教え―チベットが伝承した覚醒の道』(地湧社)、ナムカイ・ノルブ(永沢哲訳)『チベット密教の瞑想法』(法蔵館)、ナムカイ・ノルブ(永沢哲訳)『夢の修行―チベット密教の叡智』(法蔵館)、ツルティム・アリオーネ(三浦順子訳)『智慧の女たち―チベット女性覚者の評伝』(春秋社)、ソギャル・リンポチェ(大迫正弘・三浦順子訳)『チベットの生と死の書』(講談社)、タルタン・トゥルク(林久義訳)『秘められた自由の心―カリフォルニアのチベット密教』(ダルマワークス)
カギュ派
・ティローパ、ナローパ、マルパ、ミラレパら。
・経典に「ナーローの六法」など。
・マハームドラーの教えを伝承する。
・聖なる狂気を特徴とする。
・参考文献。おおえまさのり訳編『チベットの偉大なヨーギ ミラレパ』(めるくまーる社)、エヴァ・ヴァン・ダム(中沢新一訳・解説)『チベットの聖者 ミラレパ』(法蔵館
サキャ派
・インドのマハーシッダ(大成就者)からの伝承教義を受け継ぐ。
・参考文献。正木晃、立川武蔵チベット密教の神秘』(学研)
ゲルク派(新派)】
ダライ・ラマ五世ら。現在のダライ・ラマ14世は、ゲルク派の代表者と同時に、チベット密教全体の代表者である。
顕教の重要性を再度強調し、規律を厳守することに特徴がある。
・参考文献。ヤンチェン・ガロ撰述、ラマ・ロサン・ガンワン講義、平岡宏一訳『ゲルク派版 チベット死者の書』、ダライ・ラマ中沢新一訳)『ダライ・ラマ、イエスを語る』(角川書店)、ダライ・ラマ+ファビアン・ウァキ(中沢新一+鷲尾翠訳)『ダライ・ラマ、生命と経済を語る』

さて、『改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』のテーマは、「自分がいつかは死なねばならないこと」をいかに超えるか、である。(とは書いていないが、そういう観点から私は読んできた。)
まず、「自分がいつかは死なねばならないこと」は、実存哲学における最大の「限界状況」であることを確認しておこう。ハイデッガーは、他人と置き換え不可能な自己の死が、自己の本来性を覚醒させる哲学的な機会となると考え、死は高次の法廷であると考えた。また、ヤスパースも、死を「限界状況」として捉え、それからの超越を思考した。
私が一時期、実存哲学関係の書物を読み耽っていたのは、死の問題が扱われていたからである。私には死が、足音も立てることなく、静かに忍び寄って来るものであり、死の問題の乗り越えなしに、真の幸福もありえないように思われたのだ。偶然性に支えられたあやうい幸福、そう思われたのだ。人生は虚妄背理であり、いつかは破局的な終末によって一気に崩れ去るものであると考えていたのである。しかしながら、実存哲学がもたらしたものは、絶望と虚無であり、救済には程遠いものであった。
人間の生命を引き伸ばすということに関しては、無論、医療科学が誰の眼にも納得のいく解決の方法を示してくれる。しかし、条件のいい環境下であっても、人間の寿命は、たかだか百数十年に過ぎない。無論、寿命が延びたとしても、無菌状態で、医療用ベッドから離れられない状態では、本人にとって幸せと言えるのか、はなはだ疑問である。
人間の死は、実はDNAのなかにプログラミングされている。この個体が永遠に存命するとすれば、生存中に環境から受けた様々な悪影響が、体内に蓄積することになる。また、遺伝子情報に、さまざまな差異を持たせ、どのような事態が起きても、どれかがサバイバルすればいいというのが、生物の仕組みである。つまり、性の分化と、不死性の喪失は、不可分なのである。
とすれば、宗教的解決や哲学的解決しかない。まず、実存哲学は解法としては、不十分であった。彼らの功績は、問題の所在に眼を向けたことである。死の問題を隠蔽するというのが、文明社会の主だった潮流である。(布施英利『死体を探せ!』角川文庫を見よ)
では、宗教的解決はどうか。小林秀雄カミュの『ペスト』評で、やがて来る死という難破が避けられないとしたら、宗教的解決や哲学的解決は空想でしかない、そのような避けられない破局を、カミュは不条理と呼んだ、という趣旨のことを書いていたことを思い出す。そう、大抵の宗教的解決は、世界の背後などというありもしない世界への逃げでしかない。特に酷いのになると、現世における権力を統べる者が、そのまま神となるケースである。こんなものが、他ならぬ私が死ぬことという難問の解決に繋がるはずがない。
絶対的唯一神を信仰する一神教は、無論、他の一神教を認めない。自分たちの奉ずるのが神ならば、別の宗教の奉ずる神は、悪魔であるというのが、彼らの論法である。まず、ひとつの一神教にしか触れずに育ったのならば、なんの疑問もなく、その神を信じるかもしれない。だが、複数の一神教があることを知り、これからどれかを選択して入るとすると、それを決めるのはその人本人の価値基準である。これは、その神に先立って、神より上位の価値基準があることになる。さらに、その価値基準で判断できない場合、眼をつぶって決死のダイビングをすることになる。なぜなら、ひとつ以外は、悪魔であり、地獄落ちなのだから。足元を見下ろせば、深い闇の淵があるばかり。このダイビングは、「believe」であり、便宜上「信じる」と訳すが、実は日本にはなかった思考法である。
『改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』の世界は、このような「believe」を要求しない。その代わりに要求するのは、「心そのもの(セム・ニー、sems-nyid)」を見つめることである。
ここで示されるニンマ派の教えは、顕教密教が二段構えになっており、まず「I共通の加行」で、あらゆる仏教の基本となる顕教が、みっちりと教授される。ここで、顕教をしっかり押さえておかないと、瞑想修行の目的が利他行ではなくなったり、浅はかな超能力崇拝に繋がる可能性がある。
ナムカイ・ノルブの『虹と水晶』等を参照しつつ、顕教密教の関係を押さえておこう。(このレビューでは、さまざまなテクストを基にチベット密教に関する知のマッピングを行う。これは、読者が『虹の階梯』を入り口として、より深い参入を図ることができるようにするためである。ただし、ここで述べるのは、表面的な知識に過ぎない。各人の瞑想修行を通じて、これらの知識が生きたものとなるとき、初めて人生の知恵にまで成熟を遂げることができる。)
まず、仏教ではあらゆる生き物が輪廻の中で彷徨う存在として位置づけられ、輪廻からの解脱がテーマとなる。
顕教
・煩悩を棄てる「放棄の道」であり、分析的瞑想を使う「有相の乗り物」である。乗り物とは、解脱のための方法を指す。
・声聞乗、独覚乗が小乗であり、波羅蜜乗が大乗仏教である。
密教(外タントラ)】
・クリヤー・タントラ(行為のタントラ)……浄化の修行を行う。守護尊を自分の外、自分より上位にあるものとして観想する。外的な行為を通じ、上位の守護尊より教えを授かるように、自分を浄化する。
・ウパーヤ・タントラ……浄化の修行を行う。守護尊を自分の外、自分と対等な関係に観想し、悟りのための対話を行う。
・ヨーガタントラ……浄化と内的な変容の道の修行を行う。自分を守護尊に同一視し、身体の微細なエネルギーを扱う内的ヨーガに取り組む。
密教(内タントラ)】
・マハーヨーガ(大いなるヨーガ)……生起次第(本尊の観想や真言の念誦を中心とする行)を軸に、究境次第(呼吸法を制御し、クンダリニー・チャクラを覚醒させ、空性大楽に至る行)も併用しながら、輪廻とニルヴァーナの同一を悟る。マハームドラー(印契)の境地を目指す。
・アヌヨーガ(完璧なるヨーガ)……究境次第を軸に、生起次第も併用しながら、輪廻とニルヴァーナの同一を悟る。修行者はみずからがその守護尊であると観想する。
アティヨーガ(原初のヨーガ)=ゾクチェン…アティヨーガは変容の道を使用するが、ゾクチェンは段階を踏まず、直接心の本来のありように到達する。ゾクチェンは無為・無作為を特徴とし、本尊の観想と真言の念誦を必要としない。到達地点は同一で、心(sems)の本性としての明知の境地にとどまることにある。

ゾクチェンでは、この世界ははじまりにおいて、「本来清浄(ka-dag)」であるとし、この世界は、自然状態において完成(任運成就lhun-grub) しているとする。
本体(nro-bo)、自性(rang-bzhin)、慈悲のエネルギー(thugs-rje)という土台に留まり続けることで、人は輪廻を離脱できるが、この土台に無知無明である場合、(外部/内部、自己/他者……等の)二元論的な罠に嵌り、輪廻に絡め取られることになる。

ニンマ派に伝わる『バルド・トゥドル』は、臨死(ニア・デス)体験を記述し、輪廻からの離脱を図ろうとするもので、離脱に失敗すると、49日間の彷徨を経て、次の生に転生するというものである。
中沢新一による『三万年の死の教え―チベット死者の書]の世界―』を読むと、ニンマ派の『バルド・トゥドル』は、まず神智学の影響を受けたエバンツ・ヴェンツによって西欧にもたらされ、深層心理学者カール=グスタフ・ユングによってその精神的価値を認められ、さらにはサイケデリック心理学のティモシー・リアリーによって再評価されたという。
ティモシー・リアリー+ラルフ・メツナー+リチャード・アルパート(ラム・ダス)著(菅靖彦訳)『チベット死者の書 サイケデリック・バージョン』は、臨死(ニア・デス)体験とLSDによって得られるサイケデリック体験に共通点が多いことに着目し、『チベット死者の書』を、いまを生きる者のための瞑想誘導に適用しようとするものである。
チベット密教の偉大なところは、彼らと違い、ノン・ドラッグで、ヨーガのテクニックだけで、臨死(ニア・デス)体験に接近し、その体験を『バルド・トゥドル』に埋め込んだことである。

チベット密教では、埋蔵宝(gter-ma)という考え方があり、パドマサンバヴァやヴァイロチャナらのグルが、次世代のために埋蔵した経典や法具を、文字通り発掘して再発見した「大地の埋蔵」、密教修行者が、瞑想の中で(潜在意識の中で)過去の偉大なグルの教えを掘り起こし、この世界に出現させた「密意の埋蔵」、深い三昧の中で、本尊が現れ、経典を授かる「清浄な顕現」がある。
ボン教ニンマ派では、埋蔵宝(gter-ma)の中でも経典(埋蔵教gter-chos/gter-bka')を重視している。他の派では「清浄な顕現」のみを重視している。
ここで、注目されるのが「密意の埋蔵」に得られた埋蔵教である。これは、西欧に眼を移すと、似た事例が存在する。例えば、西欧ではグノーシス派は、キリスト教の異端とされ、文書はことごとく抹殺された。『ナグ・ハマディ文書』というかたちで、グノーシス派の文書が発見されたのは、二十世紀のことであった。しかし、この文書が発見される前から、西欧の実存哲学などはグノーシス主義の特徴(反宇宙論善悪二元論)を持っていた。これは『ナグ・ハマディ文書』によらずとも、人間精神の深いところに迫ったものは、共通認識を得るということであると考えられる。チベットの埋蔵教も、このような過程を経て生み出されてくると考えられる。

『改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』の後半部分では、チュウとポアという技法の説明がなされている。
チュウは「切断する」という意味で、チベットの女性行者マチク・ラプドゥンによって練り上げられた行である。チュウは墓地や洞窟、山頂、荒地で行われる。行者は夜、暗闇の中で座り、自分がカルマ(業)の負債を負っている者たち(ブッダ、菩薩、六道の住人たち、魔物、悪霊など)を召喚し、自分の体を切り刻み、供物として捧げる。行者は切断された自分の体を、鍋の中でぐつぐつと調理し、やがて甘露になってゆくのを、意識的に観想しなければならない。
このチュウの技法を読みながら私が連想したのは、法隆寺の玉虫厨子に描かれている「捨身飼虎」の図である。釈尊の前生である薩捶王子が、飢えた虎の親子を助けるために、崖の上から墜落し、虎の餌食となるというものである。チュウも、「捨身飼虎」も、自分のエゴの核となるものを「切断する」ことを教えているのである。
ポアとは、意識の転移を意味する。人間が死後、再び輪廻の巻き込まれないように、高い意識状態に転移させることに目的がある。
『バルド・トゥドル』は、臨終を迎えたものに、語り聴かせることで、バルドの中を正しく導くものであるが、生きているうちに「凡夫のポワ」の修行をしておくのが望ましいとされる。
ポワにおいては、自身がヴァジュラ・ヨーギニーに化身した姿を観想し、身体の中心の中央菅を通り、胸のチャクラから心滴が上昇し、頭上の阿弥陀の胸に、なんども飛び込んでゆくのを観想するのである。

『虹の階梯』がもたらしたものは、あまりにも大きかったために、正反対の邪悪なものを招き寄せてしまった。
ここで使用されているポアなどの術語や、チベットの僧侶の名前は、オウム真理教(現アレフ)によって転用され、汚されてしまった。
彼らの誤りは、無数にある。まず、顕教を軽視したこと。『虹の階梯』には、輪廻転生の教えを基本に、利他行が説かれている。しかし、彼らは利他行としての慈悲ではなく、利己行としての憎悪に走ったのである。また、解脱のポイントは、自性(rang-bzhin)にあるのに、彼らがしたことは、薬物やPSIなどの擬似科学を用いて、人間の精神を外部から支配し、教祖のミニ・クローンを大量生産することであった。これは、解脱=自由の方向ではなく、正反対の迷妄による隷属に向かっているということである。また、最終解脱という考え方は仏教にはない。陰謀史観と含めて、最終という言葉には、西欧の一神教の流れが入ってきている。つまり、彼らは自分たちに都合の良い教義を選択して、繋ぎ合わせているに過ぎない。そして、彼らが武装したミニ国家装置と、人類の大量虐殺に走ったこと、これはチベット密教とまったく正反対の方向である。チベット密教は、そういった権力装置の考えとなじまない思考なのである。「自己の死」という難問を解くために、チベット密教が説くのは、端的にいってエゴの解体である。このエゴの解体は、勿論マクロ・レベルでも貫徹される必要がある。国家というエゴの解体とセットなのである。だから、彼らは材料としては、『虹の階梯』の中にある概念装置を使ったのかも知れないが、使用する方向が、まったく正反対を向いていたのである。
白魔術のあるところに、黒魔術も生まれる。両者は、同じテクネー(技術)を用いているのである。しかし、前者が愛と自由、エゴの解体の方向を向いているのに対し、後者は憎悪と隷属−支配関係、エゴの肥大の方向を向いているのである。『改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』は、両義的な意味合いを持っているといえる。この書物は、ファルマコン(薬にして毒薬)なのである。チベット密教の黒魔術版を誕生させた本書が、同時に彼らの迷妄を超える指針も与えてくれると考えるのは、そういった訳からである。