『死想の血統〜ゴシック・ロリータの系譜学』

 樋口ヒロユキ著『死想の血統〜ゴシック・ロリータの系譜学』は、ゴシック・ロリータの擁護の書である。何からの擁護か。それは、今なお残るゴス・カルチャーへの社会的偏見(これは河内長野家族殺傷事件後のマスコミの動きにおいて顕在化したと著者は見る)に対してであり、さらには美術界におけるゴス(あるいはゴシック)への低評価に対してである。

死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学

死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学


 この擁護のために、著者はゴス・カルチャーの歴史的起源に迫り、さらには現代においてなにゆえにゴス・カルチャーが文化の底流となっているのかが追究される。
 ゴス・カルチャーは、ファッションから音楽、美術、演劇、文学、建築……と及ぶため、本書では脱テリトリー的に批評が為される。本書で取り上げられる人物は、ホレス・ウォルポール、ブラム・ストーカー、メアリー・シェリー、E・T・A・ホフマン、エドガー・アラン・ポーマリリン・マンソンハンス・ベルメール、ピエール・モリニエ土井典四谷シモン、清水真理、与偶、恋月姫やなぎみわ、ルーカス・スピラ、マルキ・ド・サド、J−K・ユイスマンス、ザッヘル・マゾッホピエール・クロソウスキー、ピエール・パオロ・パゾリーニ遠藤周作月岡芳年伊藤晴雨、竹下夢二、三島由紀夫藤野一友ジョルジュ・バタイユ村上龍寺山修司丸尾末広、フランシスコ・ゴヤディエゴ・ベラスケス、ジュゼッペ・アンチンボルド、ヒロニムス・ボッシュ……らであるが、本書は決して博物学的知を陳列することを目的としたものでも、学術的な論文を目指したものでもない。あくまで、ゴス・カルチャーというタナトスの文化と、ロリータ・ファッションというエロスの文化との遭遇から生まれたゴシック・ロリータの擁護のための闘争の書なのである。本書の特徴であるエネルギーに満ちたロジックと語り口は、闘争の書であるという特性に起因している。
月の神殿―恋月姫人形写真集

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Elevator Girls

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少女椿

少女椿

 本書には、廃墟のテーマが3度現れる。
 まず最初に、ゴシックの起源として、建築のゴシック様式があったと語られ、鋭い尖塔を持ち、唯一にして絶対の神を称える教会のゴシック聖堂が、ルネサンスプロテスタントによる宗教改革、さらにはイコンの破壊運動(イコノクラスト運動)によって、廃墟と変えられて行ったとされる。
 この主題は、本書の中盤、ジョルジュ・バタイユの『ランスの大聖堂』を取り上げられるときに反復され、強調される。
ランスの大聖堂 (ちくま学芸文庫)

ランスの大聖堂 (ちくま学芸文庫)

 最後に、本書の結論部で、六甲山の中腹にある摩耶観光ホテルが、「廃墟でありながら阪神大震災をも乗り越えた」建物であると語られ、読者に向かって「いつの日か、どこかの廃墟でお目にかかれば幸いである」と語られる。
 繰り返される廃墟のテーマとは何か。
 著者は、最初に登場するゴシック様式の廃墟から、『オトラント城奇譚』のようなゴシック・ストーリーが生まれたとしており、これがゴス・カルチャーの起源であるとしている。
 さらには、「おわりに」で書かれている建物の特色、「廃墟でありながら阪神大震災をも乗り越えた」というのも、示唆的である。
 廃墟というと、通常ネガティヴで、死や荒廃をイメージするのではないかと思うが、この3回繰り返される廃墟の主題では、いかなる破壊によっても破壊することのできない根底的な基盤として廃墟が捉えなおされているのではないだろうか。語られているのは、建築というより、建築に仮託した人間精神の営みである。ネガティヴの極地で、ポジティヴに変換する、そうであるがゆえにゴシック・ストーリーのような新しい文化を創出したり、震災を超えて強く生きることができる。そういう切り替えの思考が、この3回の廃墟の主題の箇所で見られるのではないか。
 さらに議論を推し進めてみよう。
 ゴス・カルチャーは、死を意識した生の文化ではないか。暗黒というよりは、暗黒を意識しているがゆえに燃え上がる炎の文化。言うなれば、グノーシス主義的思考のヴァリエーションではないか。グノーシス主義とは、反宇宙論的二元論であるが、グノーシス主義の文献である「ナグ=ハマディ文書」が再発見されるよりも前に、グノーシス主義的思考は現代思想の分野で見られた。この世界は虚妄であり、真の自己は覚醒せねばならない。このような主張を持った実存主義は、聖書考古学の分野で「ナグ=ハマディ文書」が見つかる前に、グノーシス主義的なことを云っていたといえる。ゴス・カルチャーは、思想的な代弁者を未だ獲得するには至ってはいないが、「ナグ=ハマディ文書」とか、歴史上のグノーシス主義とは関係なく、グノーシス主義的なのではないか。この問題はさらに掘り下げないといけない。
 『死想の血統』は、書き下ろしの部分と、雑誌等の媒体に先行公開されたものをもとに大幅改稿した部分から成り立っている。
 「第一章 ゴシック、文化の銃弾」と「第三章 SM、肉体の神学」と「第六章 グロテスク、犯される聖処女」が書き下ろしの部分であり、「第二章 人形、ひとがたの呪具」と「第四章 寺山修司、百年の牢獄」と「第五章 秘密結社★少女椿団始末記」が、すでに発表された文章の大幅改稿版である。
 仮に、この書き下ろし部分がなかったとしたら、それぞれ独立した人形論、寺山修司論、丸尾末広&原田浩論になってしまうだろう。ゴシック・ロリータの系譜学として、本書を有機的に結び付けているのは、書き下ろしの三章であり、なかでも理論的な核となるのは「第三章 SM、肉体の神学」の部分であると思う。書き下ろしの三章によって、大幅改稿の部分は各論として生きてくるようになっているのだ。
 「第三章 SM、肉体の神学」で取り上げられる文学者は、サド侯爵、バタイユクロソウスキーマゾッホといった面々である。このうち、サド侯爵の主要な小説やバタイユの『エロティシズム』については、澁澤龍彦による翻訳があるが、澁澤はサド侯爵、バタイユクロソウスキーの作品について、「哲学的」あるいは「形而上学的ポルノグラフィー」という表現をした。『死想の血統』は彼らの作品を、西欧のキリスト教に叛逆しようとする試みであったとして、正しく定位することによって、澁澤が彼らの作品を何ゆえに「形而上学的ポルノグラフィー」と呼んだのか、了解できるようになるだろう。
 彼らの作品は、神との関係において理解されなければならない。この本のなかには、日本のキリスト教作家である遠藤周作が、クロソウスキーと会見したエピソードも語られているが、この動機もまたキリスト教との関係において理解されなければならないだろう。
 『死想の血統』について、私はグノーシス主義的思考が見られるのではないかという仮説を立てたが、この仮説は第三章で強化されるように思う。
 例えば、バタイユは、当初シュルレアリスム(注)の運動とともにあったが、その過激さゆえに、アルドレ・ブルトンとの対立が置き、シュルレアリスムとは別の独自路線を歩んだ。バタイユは、実存主義的と評されることも度々であった。さらに云えば、バタイユの先駆であるサド侯爵は、ニーチェのような反キリスト教の側面と、フロイトのような人間の欲動の根底を暴露する探求者の側面を持っており、パスカルドストエフスキーとともに実存主義のさきがけと評されることが度々ある。
 実存主義は、グノーシス主義的であり、この世界が不条理であるという認識を示し、なおかつ、ほんとうの自己は眠っており、これを目覚めさせることが人間の解放に繋がると考えるのである。
 問題は、あらゆる価値観が揺れ動いている現代において、神に叛逆することは、逆説的なやり方で、神の存在を認めることになるのではないか、ということである。叛逆者ほど、神を意識しているものはいない。本当の無神論者は、存在しない神に抗議する事はしない。サド侯爵は、いかにも自然権と自由思想を信じる合理主義者の装いをしているが、あの激烈さは、神を意識しているがゆえである。また、バタイユもまた、倒錯的なやり方で、自らの体系に神を導きいれようとしていたのではなかったか。そして、クロソウスキーの小説のなかには、バタイユのそういう側面を皮肉る台詞が見られるのはなぜなのか。クロソウスキーは、確かにバタイユの傍らにいつもいた。社会学研究会然り、秘密結社アセファル然り。しかし、バタイユクロソウスキーは一枚板なのか。バタイユは、一神教に対して、真正面からアンチを唱える。というか、アンチを唱える姿勢において、神との関係を維持しようとする。これに対し、クロソウスキーは、多神教の原理を持ち込み、一神教のパロディを企てる。『わが隣人サド』の著者は、サド以上にシャルル・フーリエの影響を受けている。その意味でも『サドとフーリエ』を刊行するまで、ペヨトル工房には持ちこたえて欲しかった。何を書いているのか。クロソウスキーにおけるシュミラークル交換のテーマが語られる必要がある。小説から始まり、色鉛筆画を経て、ズッカの映画へと増殖するイマージュの意味(無意味?)を。
ロベルトは今夜 (河出文庫)

ロベルトは今夜 (河出文庫)


 この問題は、第三章の後半部分、バタイユの影響を受けた三島由紀夫の自決事件において、再浮上するだろう。三島は、いわば「遅れてきた青年」であり、特攻によって天皇のために死ぬことが出来なかった存在である。『死想の血統』にも書かれているとおり、三島は聖セバスチャンに憧れるマゾヒスト傾向があったから、天皇のために死ぬということは、自己が溶解する快楽を意味した。しかしながら、死ぬ機会を喪った三島は、水平的な価値が優勢を占める戦後民主主義のぬるま湯のような世界に陥ってしまった。再び、天皇を輝かせ、垂直的な価値観を復権し、光輝に満ちた自己イメージを回復するためには、文化的天皇制を力技で持ち上げ、かつ自刃するしかなかったのである。この場合、三島の持ち上げた文化的天皇制とは、三島の快楽を実現するための大がかりな虚構であったと見ることができるのではないか。
文化防衛論 (ちくま文庫)

文化防衛論 (ちくま文庫)

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

(注)巌谷國士著『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学芸文庫)では、「シュールレアリスム」という表現は誤りであるといっている。「シュール・レアリスム(英語読みでは、リアリズム)」では、「レアリスム」に対抗する「シュール」となり、意味が違ってきてしまうというのである。巌谷は「シュルレエル(超現実)」のイズムというのが正しいという。
(補足)ちなみに、ここで取り上げている文学者への私の関心は、形而上の、要するに思想的なものであって、形而下の、要するに肉体的次元の話にはない。
(補足)戦後民主主義に否定的な意見を持っていたのは、三島由紀夫であって、私ではない。むしろ、私は戦後民主主義を擁護しておかないと、リスクが大きくなるとする立場である。