フィリップ・K・ディック著 『聖なる侵入』論

[以下は、ミクシィに書いたレビューの再録です。]

聖なる侵入 (創元推理文庫)

聖なる侵入 (創元推理文庫)

本書は、フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』連作のひとつである。
ヴァリス』は、死と救済をめぐる思弁小説であり、『聖なる侵入』は『ヴァリス』で示されたディック神学をSFに導入する試みであった。この後、ディックは、普通小説の世界で同様の試みを行う。これが『ティモシー・アーチャーの転生』である。
ヴァリス』執筆にあたっては、『アルベマス』というSFの習作が書かれており、ディックの死後刊行された。
『聖なる侵入』の世界では、キリスト=イスラム教会(CIC)と共産党が手を結んで、地球を支配し統治している。そして、真の神であるヤー(地球上ではヤーウェと呼ばれる存在)は、地球の外側に疎外されていて、地球に入ることができないということになっている。
ヤーは地球に侵入するために、CY30=CY30B星系に住むリビスの胎内に、神聖受胎し、なおかつ地球でないと治癒できない多発性硬化症にする。そして、アシャーという男を結びつけ、夫婦として、地球に帰還させる。
だが、キリスト=イスラム教会(CIC)の側からは、神聖受胎して地球に入ってくる”何か”とは、悪魔にしか見えない。こうして、真の神ヤーと、悪魔と化した地上の教会権力との熾烈な霊的闘争が展開されるのである。
前作『ヴァリス』で示されたように、ディック神学には、「ナグ=ハマディ文書」経由のグノーシス主義が流れ込んでいる。グノーシス主義とは、ひとことで言うと反宇宙論善悪二元論であるが、これは正統的キリスト教から排除され、断罪された異端である。そのため、グノーシス文書は、地上から消滅し、かろうじて新プラトン主義の文書のなかのグノーシス主義批判から推定するしかなかったのであるが、20世紀に発見された古文書「ナグ=ハマディ文書」によって、喪われたグノーシス主義を再構成することができるようになったのである。
グノーシス主義における神の捉え方の特徴は、教会という地上の権力を介在せず、英智の天啓を得ることにより、ダイレクトに神性を悟るとする点にある。こうした考え方は、あらゆる神秘の独占により、人間の精神のすみずみまでも支配しようとする側と両立しないことは言うまでもない。
ディックは、この形而上学的SFにいくつかの仕掛けを施している。
第一に、地球に侵入した神イヌマエルは、自身の本性を忘れていて、脱抑止因子がないと、ほんとうの自分に覚醒しないようになっている点である。
現在の自己がほんとうの自己ではなく、ほんとうの自己を探求せねばならないというのは、グノーシス主義的であるといえる。
第二に、作中のキリスト=イスラム教会(CIC)は、聖書をカラー・コード化されたホログラムにすることを禁止している点である。これは中沢新一が『雪片曲線論』「ii テクストの預言者」が指摘していることだが、これは聖書を開かれたテクストとし、多様な読み取りをすることを禁止しているということである。これにより、キリスト=イスラム教会(CIC)による一義的な読み取りのみが認められ、全体主義化が図られることになる。
第三に、イヌマエルの前に現れるジナという女性である。これは、ディックの死亡した双子の妹のメタファーであると同時に、分裂した神性をも指し示している。この分裂した神性がなにかということが、本書の後半のテーマとなってゆく。
前作『ヴァリス』で、「死海文書」のエッセネ派の思想、「ナグ=ハマディ文書」のグノーシス主義、マルセル・グリオールが『水の神』と『蒼い狐』で示したドゴン族の宇宙哲学、ヤコプ・ベーメやマイスター・エックハルトの神秘思想、ユダヤ教カバラ……といった思想を詰め込んだディツクは、本書においてSF仕立てのスピーディなストーリーとなって展開される。
これは驚くべき達成ではないか。ディックは、まったく別の経路を辿って、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』「大審問官」の章で示したローマ=カトリックという地上の権力と真のキリストが対峙する世界を連想させるような、形而上学を展開したのであるから。